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【cinema】「月」

「津久井やまゆり園」の事件があった頃は、まだ川崎市から引っ越して1年くらいで、地名を聞いて多少の現場の土地勘に対する認識の鮮度あった。誰にとっても胸が痛まずにはいられない事件でそれを辺見庸が2017年に小説化したものを下敷きにした映画化ということは鑑賞後の公式サイトで知って、だからタイトルも『月』だったのね。
予告篇でみた時の宮沢りえがすごくて、そういえば映画で彼女を観るのは初めてかも。同い年なので勝手に気まぐれに応援している。

新聞やラジオや書物を通じて、このテーマからそんなに背けずに見聞きしてきたつもりで、ストーリーはある程度わかるのだけど、そういう問題ではなくて、出てくるみんなのぎりぎりの判断の揺らぎじっとりと月に照らされているのが全体を通じている。

りえちゃん扮する堂島洋子さんは、この作品の前に観た「La Maison」の主人公もそうだったな、小説家で、執筆以外の経験、仕事を通じて自分の作品へ取り込もうとする試み。「La Maison」は自分の興味関心も存分に手伝って娼婦になるんだけど、洋子さんはデビュー作からなかなか次の芽を見出せず、経済的なこと、年齢的なことを鑑みそんなに積極的でなく重度障碍者施設スタッフになる。先輩同僚の若い陽子さん(二階堂ふみ)は、小説家を志しつつ施設スタッフをしていて、憧れの小説家でもあった洋子さんが自分の後輩同僚になるここも奇妙な関係で、身近に憧れの存在が来た素直な喜びと、自分の決して望んでいない仕事の後輩になるという妙な優越感と、とはいえ先の見えない理不尽さ?絶望を既に陽子さんは味わっていて、それを洋子も経験しなくてはならないという、不安の先輩になる歯痒さ。家では家族そのものが「見て見ないふり」を実演するハリボテ家族で、その殻にヒビを入れることもできないもどかしさ。二階堂ひとみのまあるい瞳がにぎにぎしくなる。素晴らしい演技。

みんなそうなんだけど、この映画では特に分かりやすく、何かをしたくて、その夢の実現のために他の現実を生きている。洋子も陽子も小説が書きたく、「さとくん」はきっとボクサーを夢見ていたのだろう。洋子の夫役のオダジョーも映像作家を目指してマンションの管理人をしている。「憧れる何か」に忠実でもなかなかそれで現実を生きてはいきにくい世の中。自分も身に積まされるんだけど、もしそれら夢と現実の乖離を理不尽と呼んでしまったことに、彼の暴走は始まったのだろうか。

既にある程度の情報を持っている惨劇がどうやって映像で描かれているのかに注目してみた。同年代のミューズでもある宮沢りえが、そういうメイクを施してもいるのだろうが、たるみも毛穴もこけた頬もくすんだ月明かりにむき出しにされながら苦悶する。
施設職員の抑制を極めたデザインの制服によって、それぞれの苦悶や歪んだ野心がさらに露骨になる。「さとくん」扮する礒村勇斗の演技も取り憑かれているところとそれを制御できないのにできたふりをしているところと、自分の耳の聞こえない彼女に対する惜しみない愛情と、バラバラなキャラクターがちゃんと1人の若者として内包されている。そして通じて意識される薄霞な月あかり。こんなにタイトルに忠実でいいのかしら。

この施設の患者さんは、母の入院している重度認知症専門施設にも少し似ている。母を知っているからだけど、ここにいる人たちもみんな病を抱えているだけなのだ。その人であることの尊厳は変わらないのに、自分も見てみぬふりをしているのではないか、スタッフに任せてしまっていることに、現在の最善の対策である自負もあるし、それしかないと言い聞かせているところはないのか、胸のつっかえは未だ取れない。

観に行った新宿キネマートでの上映最終日ということもあって、小さめの会場にほぼ満席近い観客がいた。
後味なんてない、苦々しい作品だけど、特集組まれたらまた観にいきたい。

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