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博物館に行こう~『芳年~激動の時代を生きた鬼才浮世絵師』①

月岡(大蘇)芳年という浮世絵師をご存じでしょうか。きっと少しはちらりと見たことがあったりするはず。

うらわ美術館で開催されていた(会期終了しています)特別展『芳年~激動の時代を生きた鬼才浮世絵師』を軸に芳年さんを紹介したいと思います。

1.江戸から明治を駆け抜けた浮世絵師

芳年さんは明治の終わり(天保10年1839年)に江戸で生まれました。小さいころから絵の才能があったようで、12歳で歌川国芳に入門。14歳でデビューを飾りました。師匠の国芳は武者絵で名を馳せたひと。芳年はライフワークのような形で歴史物語絵などを描きましたが、きっと師匠の影響が大きかったのでしょう。

芳年が絵師として活動を始めた1854年にはペリーが来航しましたし、世の中はあわただしく変わっていきました。浮世絵師の生活だって明治維新前とあとではがらりと変わりました。時には戊辰戦争や文明開化を浮世絵の技法で描いたもの、新たな絵画表現に挑んだものなどいろいろです。文明開化は浮世絵師たちに西洋の絵画技法を授けましたが、同時に入ってきた写真技術によって浮世絵界は衰退していきました。

さて、あくまでも「浮世絵師」として生きた芳年の作品は、師匠である歌川国芳から受け継いだ武者絵、上野戦争での悲惨な戦いの現実を取材したものから始まる無残絵、血みどろ絵、そして、明治の世の中を伝える錦絵新聞から新聞挿絵、日本歴史物語絵と世の中の要請に応じ常に時代の先端を走る作品を作って54歳で亡くなりました。

2.芳年の作品から見る時代(江戸~明治)

江戸時代末期の芳年さんの代表作がコチラです


『頼光四天王大江山鬼神退治の図』(一部)

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迫力と絵の構図がかっこいい。こういった格好いい芝居の一場面を描いたような作品です。この時期に描かれた役者絵を見てください。背景の千代紙みたいなデザイン。

『五代目坂東彦三郎すけの局』

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明治に入り、江戸の町そのものが戦場になりました。芳年はひとびとの「怖いもの見たさ」に応じる形で無残絵といわれるような戦場を実際に取材した作品を描き続けました。しかし、その仕事は芳年を神経症に追い込むことになりました。


3.芳年の作品から見る時代(明治8年~)

神経症からの回復が見られた芳年は、「郵便報知新聞」で新聞錦絵に新たに活動の場をうつし、作品を精力的に発表します。こういった絵で絵ががれたのは「徳川幕府の瓦解」や「日本の歴史」です。

『第日本名将鑑 源三位頼政』

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『大日本史略図会 第八十代安徳天皇』

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江戸期までの日本には「国家」という概念がいまいち希薄でしたから、明治になったから、といって人々の心は急に「日本の国民として、諸外国に負けないように!」みたいな気持ちにはなりません。そこで「歴史」の必要性が出てきました。江戸期までの歴史といえば「平家物語」などの軍記ものを歌舞伎などで上演するのを楽しみに見る、といった具合。

それでは国としてのアイデンティティが持てない。そこで「歴史」を国家の方針に合わせて編み、普及させなければならない。人々が「国」を認識し、形の上ではなく、心から「われわれはこの国の人間だ」と思うためにはどうしても歴史物語が必要だったのです。(国造りには物語は必須ですから)

4.芳年と浮世絵

ここまで見てきたように、浮世絵大衆の娯楽絵であり、作者が芸術性を追求するものだけではなく、市場を流通するものである、ということがわかると思います。激動の世の中で常に時代の先端を描く「浮世絵」を制作し続ることができたのは芳年が西洋の画法や表現を研究し続けていたからでもあります。晩年になり、市場と離れた自分自身の作品を描くことができるようになったのではないか。芸術作品には製作者の内面や思想を描く、そういったことも明治になってから言われるようになったことなのです。

『月百姿 源氏夕顔巻』

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『月百姿 玉兎 孫悟空』

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このあたりは芳年の集大成といえるのではないか(と勝手に思う)作品です。

「最後の浮世絵師」芳年の作品をどこかでみかけたら時代を苦しみながら乗り越えた作家だと思ってみていただけると嬉しいです。


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