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つれづれ!『光る君へ』第16回

いよいよ追い付いちゃう!『光る君へ』第16話、
石山寺で道綱母と出会うまひろでした。石山寺は紫式部が『源氏物語』の着想を得たともいわれている場所ですから、そういった意味もあるのかな。
道綱母と会ったことはないとおもいますけれど、『蜻蛉日記』は読んでいた。こういった文学がどう流布していたのか考えるとわくわく楽しみになりますね!!
コピー機もスクショもない当時ですから、みんな手で書き写していたわけですよね。しかもすっごい早かったといいます。これは文章だけではなく、絵の場合もです。これ「面白い!」と思ったら模写するという習慣が江戸時代まであるので、そのころの記録を見るとすごいスピード感で模写していたんだな、と思います。

そうそう、道綱母は言っていました「文章で己の悲しみを救う」と。これは共感されるかたも多いのでは?

そういえば今更気づいたのですが、まひろが月を見る時はドビュッシーがテーマなのね。

藤原行成が一条天皇に「古今和歌集」を贈呈していました!!!!こ、これはもしや「関戸本」?
ちがうか。
ちなみに、伝藤原行成の「関戸本古今和歌集」とは、加賀前田家に伝来し、のち関戸家のものになった冊子状になっていた「古今和歌集」です。赤や白、藍色、緑、黄色、茶色…といったう様々な色に染められた紙を濃淡取り揃えて書かれたもので、まあ紙も美しいわけ。だから、今回一条天皇に差し上げていたものは見た目が違いますね!!
ともかく、名筆であることは確かですので、機会があればぜひ見てくださいね!!
行成は平安時代の「三蹟」のひとりです。和様の書を確立した人としても知られていますね。「筆を傾けて書いていたので、丸みを帯びているのに堂々としていて迫力がある。楷書と行書の使い分けセンスがまたすばらしい」と評されています。この時代、関わりが薄い人の「ひととなりを知る方法」がその人が書いた「書」だったりするわけで、字のうまい下手だけではなく、墨の継ぎ方とか字のかすれさせ方とか、かなと漢字をどんなふうに交わらせるかとかがとても重要視されており、その点で行成はすごかった。
ただの手紙でもそれを手にした人がよろこびを語ってしまうそんな書だったそうですよ。白楽天は漫画『阿吽』の中で「詩で世界を変える」と言っていましたが、行成は「書で世界を変える」といっても過言ではなかったのでは?なんて思いますよね。

と、藤原行成の書で興奮してしまいました。興奮ポイントはそれだけではないです!!!

香炉峰キターーーーーーーーーー!!!!!
ぜえぜえ。香炉峰の雪はどうだろうか、というのは当時の宮中の基本的教養、白楽天の詩の一節になります。あちこちで書かれていますし、ドラマのなかでも公任が女房に説明していましたが、(というか当時の定子サロンでそれがわからない人はいなかったと思いますけれど)白楽天が流刑地において「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」といったことによる清少納言の機転ですね。『枕草子』によると。「みな定子様に「香炉峰の雪はどうだったであろうな」と言われたときに、「あの詩ね」とは思ったけれど、実際簾を上げる、という行動に出ることは思いつかなかった。と悔しがった」とありますから、雪→香炉峰→白楽天までは連想できても、簾を上げる(中宮がいたら普通外から見られたりしないように簾はあげない)行動に思い至る人は少ない、という常識にとらわれない清少納言の発想力!という話ですね。ただし。この歌は白楽天が流刑にあっていて、そのわびしさを歌った歌なのに、天皇がいる場でそれをふざけるなんて知識が浅いわ!!その返しはまったくふさわしくない!という見方もできるので、紫式部は日記に「あいつの知識は浅薄だ」と書いたわけですね。

そのあと、みんなで雪山を作っていますが、このエピソードはもっとあとにくるとおもったんだけどなあ、と思いました。
『枕草子』では「雪山を作る話」はすごく事細かに描かれています。それは、『枕草子』ではこんなエピソードになります。

・大雪が降ったので定子の部屋では雪山を作ろう(香炉峰を再現)ということになった。
ありとあらゆる人が雪山を作りに来た。下働きの人も警護の人も。役人たちもどんどんやってきて、定子のサロンは大賑わいで、作ってくれた人たちには定子からプレゼントもあった。(実際には天皇や中宮が庭に下りて自分で雪山造るってことはないです。)で、定子は女房たちに問います。「この雪山はいつまで持つかしら」みんな10日とか月末まで!とか言いますが、少納言はここで「来月の15日!!」と勝負に出ます。
で、調子に乗ってしまった。ついつい定子に良いトコ見せたくて逆張りした!!と少納言は後悔しまくっているのですが、どうにか月末までは雪山が残っていた。定子が時々「まだあるかな(笑)」とか笑いながらツッコむのでその度に、しにそうな気分である。。そうこうしているうちに定子は帝に呼び出されてなんにちも部屋をあけることになった。その間に15日を過ぎろ…忘れてくれ…と願う少納言。さて、15日の朝。ドキドキして見に行ったら昨日までは確かにあった雪山が消えていた…がーーーーん!!(少納言の心の声)
そして、定子に呼び出される。帝の部屋に居続けている定子が帝の並んでにこにこしながら待っていた。大きなことを言ってしまった!と恥ずかしい少納言。ここで定子は言うのであった「朝になって残ってたから、あなたをびっくりさせようと思って、壊させたの!」
少納言はへなへな崩れ落ち、帝と定子は大笑いしたのでした。

っていう話なんですけれど、この雪山。たいへん評判になってその後大雪が降るとありとあらゆるところで雪山を作ることになりました。道長だって娘彰子のところで「金にあかせて、いまだかつてないとんでもなく大きい雪山」を作って帝を呼び出して感嘆させています。
この話をすごく清少納言は日付まで詳しく記しているのですが、それにはもちろん意図があるわけですね。「この時、定子は1ヶ月近く帝のおそばにいっぱなし」であった。ということ。(定子は妊娠します)

「お前ら(道長ら)が失脚させて、なにかと意地悪していやがらせしてくる定子様は帝に誰よりも!!!!愛されてますね!!!!!ざまああああああ!!」ってことですよね。
言い過ぎですけど、読んでるこっちはそれくらいの気分で読んでいるんだと思いますよ。

道隆はそろそろ飲水病(糖尿)がひどくなってきましたね…
そして、伊周の嫌われ者っぷりと隆家のらんぼうものっぷりが出てきてイイ感じ。伊周は道長を末代まで呪ってなくなりますけど、隆家はこのあと大宰府で自由に楽しくぶいぶい言わせるんで、人には適材適所があるんだなあ、なんて思いますよね。

『大鏡』によると道隆の治世にそれほど否定的ではなかったですけど、ドラマの中ではけちょんけちょんに言われていてかわいそう。(中関白家推し)

「徳によるまつりごと」という一条天皇。当時の認識ですが、それが出来ていないと疫病が流行ったりするので、出来る範囲でこれなら「徳」があるのでは?と思うことをする以外ないわけですよね。たとえば流罪の人を許すとか。それで疫病の流行がおさまるわけではないというか、まあ弱いものからバタバタしんでいくんだよね、というか。実際は毎年のように疫病が流行っていました。赤痢とかはしかとか。当時の医療知識を総動員して対処してもしきれないときは神仏に祈るしかないんですよね。
ちなみに一条天皇はインフルエンザでなくなった、と言われていますし。
実際できるのは叡山で祈祷くらいしかないので、それはしてますしね。

悲田院が出てきました。京都には東西二か所にありました。
ちなみに当時の薬といえば奈良時代、鑑真が持ってきた漢方香料です。しかも疫病にはまったく効果がない(あたりまえ)
基本的に日本で栽培できる能力にもかけていて、薬草園ができるのは江戸時代まで待たなければなりませんでした。(小石川植物園)疫病が流行っている京都で庶民に飲ませる薬なんて、まあないよね。
病気になったら、貴族であれば薬師、験者、陰陽師がやってきます。薬師が食事指導とか香とか(今でいう薬玉なんかがあたりますね)あとは鍼灸を提供して、他の二者が加持祈祷です。どっちがいい、ということではなく「両方がだいじ」とされていたという認識でいいのかなと思います。
道長は自身の病気(道隆と一緒の飲水病)になった時に薬師に言われた薬(本来貴族は口にしない木の根など)を服用し、多くの僧侶が香をたき、祈祷をしていたと記録が残っていますから、この両輪が大事だと思っていた、ということでしょう。とはいえ、食事療法ができるのは貴族だけで、全国的な疫病で人ができることはそれほどなかったりするわけですよね。そう思うと、道隆もかわいそうな。
と、書いていたらほぼドラマの内容に触れていない気がしますが、倫子様!!こわい!あなたのほほえみ地獄の入り口にようこそ感がございますね!!ということで。おわり。

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