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10-0を認めろと、10-1で責める正義とは

集団心理から生まれる行き過ぎた正義感。


反応すれば「認めた」「図星」と攻撃をされ、
スルーすれば「逃げた」「卑怯」と叩かれる。

事の善し悪しに10-0はないのは理解している。
火のないところに煙は立たないことも。

しかし、火種を見ていない当事者以外が見知らぬ相手に何をそこまで言えるのか。
何を見て、何を感じて、それを真実だと思い、悪だと罵れるのだろう。


「仲間だから」は理由にならない。


しかし、
「謝罪」以外に選択肢はないという。
「謝罪」をして10を認めろという。


有無を言わさず『10-0』なのだと、何の迷いも疑いもなく『10-1』でたたみかける。


そんな状態で準備された土俵の上で、何を語れというのか。
いや、語ることなど最初から求めてはいない。
求めてるのは謝罪と、当然の報いだと向けられる罰。


そこに真実など必要ないのだと思う。


「仲間」だという部外者が、必要以上に追求することのなにが正義か。

『仲間と共に立ち向かう正義感』という名の私刑に気づかない集団心理に何を思う。

なによりそれを見ている当事者は何を思う。

『仲間』と共に追い詰めていくのは、信じて
疑わない正義と正論故、当然のことだということか。




人は時に、
いや常に、
むやみに強くて、刹那に脆い。



10の貴方達も
1の貴方も。




ちなみに私は、己をとても弱い人間だと自覚している。

だからと言って、おいそれと10は認めない。
そこは譲れない強さだけは持っているつもりだ。

非があることには謝るが、加えて一方的に膨らませた虚構の事実までまるっと一緒にされて作られた土俵には乗らない。
もしそれが逃げだと言うのならそう思われても構わない。


そして、
むやみな10は卑怯だから、それなら脆い1でいい。




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