見出し画像

月記 神無月

10月。まだまだ暑い。

都民の日

都民の日には、無料になる都内施設がある。せっかくなので、上野動物園に行った。息子の興味は微妙だ。動物との距離感と動きが興味のポイントのようだ。私は、レッサーパンダを見られて満足。息子は、電車に乗れて満足。

金木犀

金木犀が咲いている。濃い香がする。粉っぽいと思って昔は好まなかった。しかし妻が好きと知ってから不快ではなくなった。私の感覚なんてそんなものだ。

さつまいも掘り

近所の農家にさつまいも掘りのボランティアに行った。さつまいも掘りは幼稚園以来だ。見たこともない虫を見ながらひたすらホリホリ。丸々としたサツマイモをたくさん掘り出すことができた。今年は暑かったため、成長しすぎて丸々と太ったとの説明だ。最後にサツマイモを少しだけ購入。一か月は干すと良いそうだがそこまでできない。数日して蒸して食べた。甘くて身が詰まっていておいしい。息子も喜んで食べてくれた。

新しい朝が来た。

通勤電車。最寄り駅が始発のお陰でいつも座れている。今日も座れたわけだが、乗換駅の3駅ほど前で、女の子とお母さんが目の前に来た。「抱っこ」「せまいから出来ないよ」女の子は、息子より少し上だろうか。私は本を読んでいたが、これから先はもはや読んでるフリになる。もやもやするのも嫌なので、自分の心に正直に動いてみた。次の駅で、立ち上がり降りて急いで隣の車両へ。そこではもちろん座れなかったので、流れに乗ってドアの脇に行く。乗換駅では、先頭を切って階段にたどり着く。いつもはここで人の波にもまれて不快なのだが、スムーズで不快のない朝になった。そうか、こう動けば不快が減るのか。親子に感謝の念を覚える。

席を譲るのは自己満足だ。

席の譲り方について考えてみる。私にとっては、感謝や譲ってもらったりというのは精神的な負担になる。そうした行為はどれも素晴らしいことだし簡単そうで実は難しい尊いことだと本当に思うけれど、だからこそ重荷に思う。それにそのまま目の前にいるのも恥ずかしい。だから、譲るなら降りるフリをしたり場所を変えたりする。そうすることでなんの気兼ねもなく座れるし、こちらも変な気負いもない。私はそう考えるのだが、今回は良かったかどうかは自信はない。なぜなら子どもがいたからだ。子どもにとっては、譲ったり譲られたりという経験を積む貴重な機会だったかもしれない。私はその機会を奪ったとも言える。感謝や重荷があるからこそ、譲り譲られの円環があるのだろう。今回は、そんな円環が発生するわけはない。席を譲ったというよりただ席を空けただけだからだ。私の行為は重大な過ちだったのだろうか。そうだとしても、気にしながら何もせず、本を読んでいるフリを続けるよりも私の気持ちはスッキリしている。自己満足できているだけマシだ。

報告

「今日は一日一善をしたよ。」私はその夜、妻に話した。「眼の前の親子に席を譲った。でもそのまま前にいるのも嫌だったから降りて隣の車両に行ったよ。なんか嫌じゃん?」
妻「意味わかんない。」

ガマン大会にきたわけではない

今日は休み。朝から近所の温泉に行った。無料券があったからだ。ロウリュサウナなるものを体験してみる。これは、熱い。過去1番かもしれない。長居はできないな。とはいえ先にいる人よりも早く出るのも癪だな。ガマンしてがんばろうか。いやいや、何しに来たんだ。ガマンより楽しむことだろう。そう思って出た。太陽が眩しかった。

服は防寒だけでも自己表現だけでもない

妻に、袖が破けていると指摘を受ける。紺の薄手のジャケットだ。使いやすいし気に入ってるしで私はあまり意に介さない。しかし肌が見えるので、そこそこ目立ちそうだ。
ところで和装の女性を見かけた。美しい服だった。アズキ色をよりピンクに寄せ、少し薄くしたような色をベースに、六角形を三分割して色を変えた柄だった。言葉で説明することは難しい。Bingで画像を作成してみたが、まぁね、という感じだ。私の描写力はともかく、人の服装で気持ちが華やぐ経験をした。
どうやら服装には着る人だけでなく見る人にも影響を与える効果があるようだ。私の破れた袖は、不快に思うものなのかもしれない。少なくとも妻にとってはそうだったのだろう。とはいえ気に入ってるし捨てたくはない。縫うかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?