ぼくの平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック/B面 30-30

1989年、ニッキー・ホプキンス「ドリーマー」

1989年、生まれてはじめての外国旅行がニューヨークだったと、この「平成パンツ」連載の最初に書いた。帰国直後に借金を作り、彼女にふられたことも書いている。

じつは、その顛末には続きがある。

当時、ぼくは『マイルストーン』というサークルに所属していた。この年、ぼくら『少年ヘルプレス』の企画で、毎年2冊発行される通常号の秋号に「イカすミニコミ天国」という特集を打っていた。ぼくらが所属していた「マイルストーン」や「早稲田乞食」といったおおきなミニコミ・サークルとは別に、インディー中のインディーともいうべき個人規模の雑誌(当時はまだzineという便利な言葉はなかった)がいくつかあり、それを制作・発行している人たちにインタビューした記事をまとめた特集だった。

素人対素人の取材とはいえ、ぼくが他人にインタビューしてそのテープを起こし、構成するということをやったのは、このときがはじめてだった。もちろん、とっくに活動は終了していたけど『少年ヘルプレス』もちゃっかり登場した。インタビューを構成するにあたって、ニュアンスは『ロッキング・オン』でも好きなページだった「渋松対談」を参考にしたが、取材に応えてくれた人たちの熱意が思ったよりもずっと熱かったこともあり、まじめにまとめた記憶がある。

そして、特集のあとがきの下地に、これは『マイルストーン』本体の意図ではなくカウンターであることを暗示しておきたくなり、若気の至りで「October」と薄くタイポグラフィを敷いた。ぼくの生まれつきが10月なので「オクトーバー・プロダクション」でいいんじゃないかと。

その入稿を終えて、ぼくはアメリカに旅立ったのだった。

そして帰国。すでに書いた顛末により激しく落ち込んでいるときに、また電話が鳴った。別れた彼女が考え直したんじゃないか(早すぎる)と、すぐに受話器をとると、同学年の友人からだった。

「マイルストーン」はミニコミのサークルだったけど、なぜか毎年の学園祭で本を売らずに『人生劇場』という古風なオリジナルの芝居をやる数年来の伝統があった。昔あった文士劇の学生版みたいなもので、それなりに盛り上がる。ぼくも1、2年生ときには参加していた。

電話は「帰ってきたばかりだろうし、もうその気はないかもしれないけど、いま学祭で『人劇(サークル内ではジンゲキと略されていた)やってるから、明日が最終日だし来れば?」という誘いだった。

このとき、ぼくの心はとてつもなく弱っていたので、誘いをありがたく受け止めた。そして翌日、時差ぼけで重い体を引っ張って都電に乗り、大学に向かった。文学部のキャンパスで『人生劇場』はやっていた。1時間足らずの芝居なので、配役を変えながら、1日何回もやるのだ。

昼過ぎに現れたぼくを見て、みんな驚いていた。そう言えば昨日、友人が「もうその気はないかもしれないけど」と言っていた。確かに学祭の準備を無視してアメリカに行ったけど、「その気がない」ってことは言ってなかったよ。ちょっと腑に落ちないその感覚はのちにはっきりするのだが、とりあえず夕方の舞台に出ることになった。

ぼくの役は吉良常。1年のときから顔と物腰が老けているということで、任侠老人の役がぼくに当てられていた。吉良常を演じた最年少だったそうだ。それに、稽古をまったくしていないけど、それしかやったことがないからなんとなく台詞や立ち回りは覚えていた。「若造!」と、啖呵を切る名場面がある。その「若造!」の気合が足りないと言われ、何度も先輩に練習させられた。

そして本番。舞台は進む(吉良常の出番は後半)。袖から壇上に立ち、しどろもどろな場面もありつつ、なんとか役をこなしていった。やがて、例の「若造!」のシーンが来る。素人芝居とはいえお客さんもじっくり集中する名場面だ。よし、きた、ここ、いま。

「若造!」

その瞬間だった。ぼくの口からなにかが前方にポーンと飛んだ。

あ。

その「なにか」がなにかは、自分ではわかっていた。中学生のとき、学校の階段から真っ逆さまに転落して以来、ぼくの前歯3本は差し歯になっている。よりによって、その差し歯が、この超重要な場面で口からはずれて、ポーンと客席に飛んでった。

「ひい!」

最前列で見ていた女の子(後輩で、サクラとして座っていた)がちいさく悲鳴をあげるのが聞こえた。ちょっと前からはずれやすくなってはいたけど、まさかこのタイミングで口から飛び出るとは! しかし、とりつくろってもいられないので、ふがふが状態のまま舞台は続いた。どうせもうすぐ終わる。「サ行」の発音のとき、歯の隙間からスースー息が漏れるのが自分では気になったけど、老人の役だと腹を括った。

最後に登場人物が全員揃って、舞台上でならんで村田英雄の「人生劇場」を歌って大団円。

すべてが終わってお客さんが退場してから、最前列の椅子の下に、飛んだ差し歯を探しに行った。あったあった。ありました。さいわいにも出演者はだれもこの珍事に気がつかなかったらしい。だが、ひとりだけしっかり気づいていた人がいた。あの「ひい!」の彼女だ。「ガムですか?」と聞かれたので、しかたなく真実を打ち明けたら、ニコリともせず普通に引いていた。ぼくはまたすこし落ち込んだ。

その日の舞台がすべて終わり、学祭も本日で終了ということで、今夜は後夜祭もあるし、各サークルでは盛大に打ち上げが行われる。家に帰ってもさびしいだけなので、駅前の居酒屋に向かうサークルのみんなの最後方をぼくはひとりで歩いた。

その集団が大学構内を抜けようとしたときだった。現編集長が、そこに立っていた。1年生のころは一緒によく映画も見に行った仲で、彼が編集長に就任するときは「おれもいろいろ協力するよ」「頼むよ」というやりとりもあった。その編集長に「ちょっと話がある」と言われ、人通りのほとんどない校内のへそみたいな場所に来た。後夜祭の喧騒がうそみたいに、ここは静かだ。

これはよくない予感がする。きっと差し歯の話じゃない。無言で歩く彼について行きながらも、隙を見て逃げ出したかった。やがて立ち止まると、彼は振り向きざまにこう言った。「あのオクトーバーってなんなの?」

「いや、あれは……」と口ごもる。

「あと表紙のこととか」と彼は続けた。詳しくは書けないが、ぼくが好き勝手にディレクションした表紙が「問題あり」の指摘を受け、結構な騒動になっていたとあとで知った。

そうか、だからあの「もうその気はないかもしれないけど」のくだりになるんだ。友人は気を遣ってくれたわけだけど、ぼくがサークル内で置かれた現状はとてつもなくアウェーだったのか。

それでも虚勢を張って、「おまえらのやってる退屈なミニコミごっこに対するおれたちなりの遊びだよ。だって、特集はおもしろかったでしょ?」って言うべきだっただろうか? でも、あのときはそう思っていたとしても、いまの弱った心ではそれを押し通すだけの気力がない。金もなく、彼女もなく、前歯もなくして、これで友人もなくすんだなと観念するしかなかった。

つかつかと歩み寄ると、彼はぼくのシャツの襟口をつかみ、ぎゅっとしぼりあげた(彼の背丈は180センチくらいある)。「おまえのせいで、本はぐちゃぐちゃだよ!」。そのとき、空いてるほうの彼の右手はすでに振りかぶった状態にあった。殴られる! でも、殴られても仕方なかった。目をつぶった。でも「ごめんなさい」とは言わなかった。

しかし、頬にくるはずの強い衝撃は来なかった。襟口を掴んでいた左手の力も弱まり、やがて離れた。おそるおそる目を開けると、彼はもううしろを振り向いていた。「やめたやめた。殴ってもしょうがない。あーあ」

そして、ぼくの言いわけも聞かずに、さっさと飲み会のほうへ向かっていった。心底あきれていたんだと思う。ものすごく情けない気持ちのまま、ぼくはひとり暗闇にぽつんと残された。そのあと飲み会に合流した記憶がないから、きっと家に帰ってふて寝したんだと思う。そうとしか思えない。

差し歯はその日以来、前にもましてはずれやすくなり、次のバイトの給料が入ったらしっかりしたやつを入れようと心に決めた(じっさいに新調できたのは翌年)。「マイルストーン」には顔を出しづらくなり、当然大学に行かなくなり、ディスクユニオンのシフトをほぼ毎日入れるようになった。後期試験もすべて無視して、この年の取得単位はゼロ。はじめての留年が決定した。かろうじて、彼女とはヨリを戻すことができたけど。

アメリカで買った1枚のレコードが、このころのぼくを助けてくれた。ニッキー・ホプキンスの『ザ・ティン・マン・ウォズ・ア・ドリーマー(夢見る人)』。最初はA面の「ウェイティング・フォー・ザ・バンド」みたいな曲が好きだったけど、だんだん「ドリーマー」ではじまるB面をよく聴くようになった。繊細で胃弱な感じの彼の歌声や音楽性が、弱っていたぼくのセラピーになってたのかもしれない。

ニッキー・ホプキンスは絵もうまい人で、このアルバムのジャケットも彼自身が描いている。裏ジャケに描かれた猫を見て、実家にいたころに飼っていた猫のことが懐かしくなり、「いつか猫が飼えるアパートに引っ越そう。でも、そんなうれしい未来なんて、はたしておれにもくることあるのかな?」と、まるで叶わぬ夢みたいにしばらく思い続けていた。

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この連載が書籍化されます。2019年12月17日、晶文社より発売。


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