ぼくの平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック/B面 30-14

2005年、ヴィック・チェスナット『スキッター・オン・テイクオフ』

こないだ、真夜中のファミレスで知人と話していたときだった。「ヴィック・チェスナット」という言葉を、その人が口にした。

ぼくはこのシンガー・ソングライターの歌を2度、生で聴いている。その最初が2005年の秋。ミネソタ州セントポールの200人ほど入るクラブで、ジョナサン・リッチマンの前座として、だった。

当時のぼくは、この人のことを「車椅子の不自由な体で歌う」という程度の認識しか持っていなかったので、じっさいのライヴを見て少なからず驚いた。不自由なのは車椅子に乗って歩けない足腰だけではなかった。ギターを弾く手もままならないし、上半身をなんとか起こして歌うのも、ずいぶんしんどそうだった。

歌は真摯なものだったが、正直に言ってきびしさやさびしさばかりが突き刺さる彼の音楽をそのときは大好きにはなれなかった。

その姿を通じて伝わってくるのは、紛れもない「痛み」だった。かっこわるさを指して冷笑する言葉としての「痛さ」ではなく、本当の意味での肉体や心の痛みがそこにあった。不自由な右手でギターの弦を「こんちくしょう!」と殴りつけるように弾き、文字通り肉体をねじって歌う。その姿には、いやでも心が動いたけど。

2009年の秋、ニューヨークのバワリー・ボールルームで見たライヴは、壮絶なものだった。じつはその夜も彼が目当てではなく、前座を務めたクレア&ザ・リーズンズを見に行ったのだ。

このときの彼のツアーはギタリスト5人を含む9人編成のバンドで、これまで不可能とされてきた彼のスタジオ・アルバムでの複雑でドラマチックなサウンドを再現するのだということでアメリカでは話題を呼んでいた。しかも、参加するギタリストはフガジやゴッド・スピード・ユー!ブラック・エンペラーの人たちなのだ。彼はこのツアーの収益を、自分の不自由な身体を支えるために必要な通院のために必要な支払い3万5千ドルに充てるのだとも聞いた。

ライヴが始まってほどなく、ホールは轟音に包まれた。しかし、構成はきめ細やかに考え抜かれていて、静けさとノイズが交錯しながら、圧倒的な空間を作っている。中央にいるヴィックは、4年前に見たときよりも明らかに体調が悪そうで、あのときちょっとは見せてくれたような軽妙さや朗らかさはかけらもなく、ただ単に生きることに切迫された状態からしか生まれない音楽をやっていた。

ヴィック・チェスナットの訃報を知ったのは、その年が終わらないうちだった。クリスマスの日、彼は45歳で亡くなった。

遺作となってしまったアルバム『スキッター・オン・テイクオフ』は、ジョナサン・リッチマンのフル・プロデュース・アルバムでこの年の秋に出ていた。ジョナサンが誰かのアルバムをまるごとプロデュースしたのは、後にも先にもこの1枚だけだと思う。

じつは、ぼくはこのアルバムを長いこと封をしたまま聴かなかった。手元にレコードが届いて、聴こうと思った矢先に訃報が届いたから、そんな気持ちじゃなくなったからだ。落ち込む気分になることがわかりきっているレコードなんか、あんまり聴きたくない。ジョナサンだって、クレアだって、フガジやゴッド・スピード・ユー!ブラック・エンペラーの人たちだって、めちゃめちゃ悲しい気持ちになっただろう。

だから、本当のことを言うとそのレコードには、いま、この文章を書くために封を開けて、初めて針を落とした。

彼が歌うのはハッピーな歌じゃない。しかし、このアルバムでの歌声には、不思議なすがすがしさというか、「はるか」な感覚も宿っていた。誰かを楽しませたり、問いただしたり、「すごい」とうならせたりするためじゃなく、まるで遠い20世紀のはじまりにただただ記録された人の歌みたいというか。古い古い録音の音楽を聴くとき、それが誰のどんな音楽かを知るというより、見知らぬ人が生きた記録がレコードのなかだけに残されていたという奇妙な発見をした感覚が立ち上るときがある。

20世紀のはじめ、SPレコードは録音した音の振動をそのままカッティングして盤にする仕組みだった。ヴィック・チェスナットのこのアルバムから聴こえてくる音には、そんな感覚があった。彼の人間そのものが震えて刻まれているよう。嘆きも怒りも呪いも矛盾も。どうしようもなく「生きてる」作品を残して、彼はこの世を旅立った。アルバム・タイトルは、鳥が水面を跳ねるようにして飛び立つさまを表した言葉だ。

この連載はソングブックだけど、今回はこのアルバムにしたい。買ってから10年経って、ようやくこのアルバムに針を落とすきっかけを与えてくれた知人に感謝を。

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この連載が書籍化されます。2019年12月17日、晶文社より発売。


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