なぜエルメート・パスコアールは、今度は八戸に行くのか?/〈FRUE AOMORI〉担当者に聞く その2

 いよいよ2023年11月11日に行われるエルメート・パスコアールの青森県の八戸市南郷文化ホール公演が目前に迫ってきた。

 「なぜエルメート・パスコアールは今度は八戸に行くのか?」の初回ではまず、FRUE AOMORIを立ち上げたヤスさんとミハルさんに今回の青森公演開催に至るまでの経緯を聞いていった。ヤスさんが営む6かく珈琲が台湾でのイベント出店のため取材から退席した流れで、ここからは今回の八戸公演だけでなく、FRUEとブラジルのミュージシャンとのつながりにおいて、とても重要な役割を果たしているミハルさんの半生を聞くことにした。

 青森で育ったひとりの女性が、なぜブラジル文化や音楽との深い関わりを持ち、FRUEに参加するに至ったか。そこには特別なドラマや奇跡とかがあちこちにあったわけではない。ただ、ひとりの人間が、たとえ思うようにいかなくても、好きなように人生を生きてゆくうえでの決意と行動があった。それは決して選ばれた人にできる特別な出来事ではないと思うし、勇気がもらえる話だし、そんな人生が、ひとつのライブに重なり合っていると知るのは大切なことだ。

──さて、ここからは〈FRUE AOMORI〉のコアであり、FRUEとブラジル人ミュージシャンのつながりにとって欠かせないスタッフであるミハルさんの話を掘り下げて聞きたいと思います。そもそもミハルさんが初めてブラジルに行ったときの話から聞きましょうか。

ミハル 短大を卒業してちょっとだけ就職した2000年です。隣の家に住んでいたウッドカンパニーのオーナーに言われて、ギターを弾いていたんです。アドリアーナ・カルカニョットがすごく好きになって、ギターを持ってブラジルに行く無謀な目標を立てたんです。

アドリアーナ・カルカニョット

──つまり、ギターを学びに、音楽をやりにブラジルへ行くということですよね。

ミハル はい。でも、さっきも言ったように両親は大反対でした。わたしがブラジルに行くって言ったとき、父親は包丁を持ち出して「おれを殺してから行け!」って言ったくらい(笑)。母親も「絶対に行かせない」って泣きました。わたし、三人兄弟の真ん中なんですけど、みんなわりと真面目にいろいろこなしてて、わたしだけ「ブラジルに行く」って言い出して、わけがわからないことだったんですよ。ブラジルに行くことを決めてからは、両親もずっとケンカばかりしてたし、しくしく泣いてたし、毎日お通夜みたいな感じ。

 親に決められた仕事で就職もしてたんですけど、絶対にブラジルに行きたかったから、内緒で辞めちゃったんです。いつも朝「行ってきます!」って家は出るけど、公園に行ってギター弾いて、父親が出かけたら家に帰って2階で寝て(笑)。そしたら、ある日ついにそれがバレて。車がキーって家の前に停まり、「こらー!」って父親が上がってきた。「殺される!」と思ったので、わたし、死んだふりしたんです(笑)

──熊じゃないんだから(笑)

ミハル そしたら「どうしたんだ!」って抱き起こされて、わたしは「どこまで死んだふりしたらいいんだろう?」って思ってたけど、目を開けたら「大丈夫か!」って心配してました。それで、そのピンチは逃れたんです(笑)

──笑えるけど泣ける。

ミハル 「なんでお前はブラジルに行くんだ? 友だちもいないし、ポルトガル語も分からないのに」って言われたけど、ブラジル音楽が好きだし、行きたかったから行ったんです。それに、とにかく青森で仕事して結婚して子供産んで死ぬ瞬間までが見えちゃって、ブルブルっときちゃったわけなんです。だから「絶対こんなところにいられない」と思って、逃げたかった。まあブラジルまで行かなくてもよかったのかもしれないけど(笑)。わたしがブラジルに行ってしまってからも、母親はずっと「ベトナム」って言ってたらしいです。

──でも、とにかく若きミハルさんは地球の反対側に行きました。

ミハル はい。リオデジャネイロに行きました。初めて乗った飛行機の行き先がリオデジャネイロ。空港に着いた瞬間、熱気の匂いを嗅いで、「ここだ! もうここでいい」と思いました。うまく言えないんですけど。

 最初は、語学学校に通ったほうがいいのかなと思って入ったんだけど、音楽をやりたくて行ったから、やっぱりギターを習いたかった。それで海でピックの代わりにコインでギター弾いてるようなおじいさんのところに行って「ギター習いたい」ってお願いしました。

──教えてくれるものなんですか?

ミハル えっとねー、教えてくれなかったです(笑)。でも、「2ブロックくらい行ったとこにいるあいつは、どっかの大学で音楽教えてる先生だたからそこ行きな」って教わって、そこに通ってました。そこは超クラシックなギター教室だったんですけど、ハファエル・ハベーロを知ったり、オペラとか聴きに行きましたよ。

夭逝の天才、ハファエル・ハベーロ

ミハル そうやってブラジルに慣れてきたらバスの乗り方もわかってきて、ライブも行けるようになってきた。でも、実はギターの勉強は、行ってから3日で「もうやめよう」と思ってましたね(笑)

──え? ようやく望んだ環境に来たのに?

ミハル なんていうんですかね、子どもの腰つきやリズムの取り方とかを街で見ていて、わたしには一生かかってもそんなふうにはできないと思ったんです。もちろんそれを自分のものにしようと頑張っている日本人たちもいるんですけど、わたしはまったくそういうタイプじゃなくて。「それはわたしのやりたいことじゃないし、ブラジル人にはなりきれない」と思ったんです。だから、スーッと気持ちが引いて、ギターもぶん投げました(笑)。でも、そこからはむしろライブも行きまくってたんです。エルメートも見て「これだーブラジルは!」って思いましたね。ブラジルって基本的にライブはタダで見られるんですよ。

エルメート・パスコアール&グループ

──タダって、こっそり潜りこんで?

ミハル いやいや、街で普通にみんな音楽やっているし、それこそビーチでマリーザ・モンチ聴ける、みたいな感じなんです。私は最初は語学学校の学生だったんだけど、そこからツテがあって連邦大学の文学部に入れて、そこで学生ビザを取得できて、長くいられるようになった。そして、音楽のイベントは、基本的に学生はタダなんです。今はわからないですけど、わたしが行った頃は音楽は本当に安かった! 音楽も演劇もお金を払ってもワンコインくらいでした。

──へー!

ミハル 当時、バーデン・パウエルが亡くなって追悼ライブがコパカバーナであったんだけど、そのときも大した金額は払ってないんじゃないかな。トリがヤマンドゥ・コスタですごかったですよ。わたし、ちびるかと思っちゃった(笑)。とにかく音楽は街にあふれてるんです。だから貧乏学生でも、ものすごく楽しめる。

ヤマンドゥ・コスタとバーデン・パウエル

ミハル リオって実は、日本人が本当に少ないんです。サンパウロには日本人がたくさんいるし、そっちに行ってもよかったんですけど、音楽がやりたかったからリオだと思ったし、サンパウロだと日本人と遊んじゃうと思ったんですよ。何も学ばずに帰ってきちゃうのがこわいじゃないですか。リオに来てた大学の交換留学生ともほとんどつるまなかったですね。

──そうなんですね。

 最初は観光ビザでの入国で3ヶ月しかいられないってわかってたから、テンポラーダっていう短期宿泊部屋を借りてたんです。それがアヴェニーダ・アトランチカっていうコパカバーナのビーチ沿いの道にある建物の最上階で、めちゃめちゃ家賃が高かったんです。部屋から毎日ビーチを見てました。青森で夏はすごく短いし、水着を着る機会もあんまりなかったし、泳げないし、肌を露出すると怒られるから
一回もビーチに入ったことなかったんです。

──もったいない。

ミハル そう思うじゃん? でも、別にビーチに対しては何も思わなかった。とにかくその部屋は何も知らずに借りて高い家賃を払ってたんで、バカの極みでしたよ(笑)。隣のオットン・ホテルの屋上のプールに行くと酒がタダで飲めるから、そこで「みんな優雅だなあ」と思いながら毎日通ってました。

──結局、大学を終えて、いったん帰国したんですよね。

ミハル 仕事も、母方の関係の会社に入ることになりました。その会社はうちの家の目の前なんですけどね。だから、仕事は始めたけど家の前の会社に往復するだけで、もう死人みたい。結局頭のなかではブラジルのことばっかり考えてました。

 でも、じゃあ自分がこの先どうなりたいか自分でもわかってなかったんです。ポルトガル語はまあままできるけど、新聞とかを読めるほど完全にマスターしたかはわからない。じゃあ東京に行ってブラジル関係の仕事をするというほどのつながりもない。音楽もやめている。ブラジルで何をしてきたのか、わかんなくなっちゃったんですよ。お父さんにも「ブラジル行ったけど、何にもならなかったじゃねえか!」と言われて、どんどんどんどん落ちていったんです。誰とも話さない真っ暗闇の世界にいました。そうすると、自分を肯定できないからブラジルのこともイヤになっていくんですよ。

──なるほどね。自分が凹んでる責任をブラジルに転嫁しちゃうみたいな。

ミハル 音楽も聴けなくなってきて、完全に鬱状態。そしたらニューヨークから帰ってきた弟にぶん殴られたんです。

──弟さん、ニューヨーク行ってたんですか?

ミハル はい、父親は「ミハルはブラジルに行って楽しそうだ。外国っていいな」と思ったらしくて、弟をニューヨークの大学に行かせたんです。わたしはブラジルで遊んでただけなんですけど、弟はガチで勉強ばかりさせられて。実家に帰ってきたら、姉は東京に就職して行ってたから、鬱々としたわたししかいない状態。弟には「おまえはブラジルに何をしに行ったんだ?」って言われました。わたしは自分を肯定できないから「わたしには何もない」としか言えなくて。

 「おまえは、“今日もブラジルに戻れなかった”、“今日もブラジルに戻れなかった”って繰り返してるだけだろ。ブラジルって遠い国で、誰でも行ける国じゃないけど、おまえは行けた。お前以外に上北の人間で誰がブラジルに行った? 今ブラジルに行けない自分を責めてるから何もできないんだ。ブラジルに行けない自分を許せ。死ぬまでにもう一回ブラジル行ければいいじゃないか」って言われて、目が覚めたんです。わたしはブラジルというものにがんじがらめになって動けなくなってたの。お金を貯めるわけでもない、音楽を聴くわけでもない、ブラジルとつながるわけでもない自分を責めてただけなんです。

 でも、弟にそう言われて目が覚めて、やっとブラジルと自分の目が合ったわけです。それで、いろいろ調べたら「群馬にブラジルがある」とわかった。まずはリハビリでいいと思って群馬の大泉にあるブラジル人街に行ってみることにしたんです。そのときわたしは28歳だったのかな。「群馬にブラジルタウンがあるからそこに一回行きたいから、一緒に一泊で行ってくれない?」って母親にお願いしたら、祖父が高崎出身だったこともあり、「群馬だったらいいよ」って言ってくれたんです。そして、私の運転で大泉まで行ったら、リオデジャネイロに着いたときと一緒で「わたし、この街に住むわ」となったわけです。で、その日にアパートを借りました。

──覚醒したミハルさんは早い。

ミハル それまで死人みたいだったのにね。アパートを借りるって言い出して、お母さんは泣いてましたよ。「あなたやっと帰ってきたのに、今度はここで何をするの?」って。わたしは「ここでこれから毎日ポルトガル語を話して、ブラジルとつながるんだ」って言い張って、アパートの契約をして、実家に帰ってまたお父さんに怒鳴られるんですけど(笑)

 でも、群馬に来て、ブラジル人がいて、毎日ポルトガル語を話して最高で、そこでわたしは群馬に住んで、日本とブラジルをつなぐ国際交流団体、KIMOBIG BRASILを始めるんです。やがて青森帰省中に知り合った同郷の人と結婚し、東京に移り住みブラジル銀行で働きながらKIMOBIGも続けていて、そしたらFRUEのスタッフと知り合ったんです。

──FRUEと出会ったのは、どういうきっかけだったんですか?

吉井大二郎(FRUE) シャララ・カンパニーという会社で働いている田村直子さんが、ぼくらとミハルさんが知り合う間に入ってます。田村さんは個人でエグベルト・ジスモンチや娘のビアンカ・ジスモンチを招聘していた人です。

ミハル 田村さんはKIMOBIGでやっているポルトガル語講座にも来てくれていたんです。そこでつながって。その頃のわたしはKIMOBIGで知り合ったアマゾンの人たちと一緒にブラジル大使館でご飯を作ったり、食べ物関係のイベントをやってたんです。彼女も東京アカラジェ&タピオカというブラジリアン・フードのチームを作っていて。港区主催で区内にある外国の大使館を集めた食べ物のイベントがあったんです。わたしたちや田村さんはそのイベントのブラジル大使館のブースで一緒でした。

 そのとき、ちょうど田村さんがビアンカ・ジスモンチ・トリオの再来日公演(2016年)を手掛けていて、そのフライヤーをイベントでも置いてたんです。

ビアンカ・ジスモンチ・トリオ

ミハル そこにアニ(FRUE代表、山口彰悟)がふらっと遊びに来たんです。当時、わたしは夫の転勤で静岡にいたんですけど、ひさしぶりに東京に行ってその東京タワーのイベントに参加していて。そしたら、アニが「静岡でフェスやろうと思ってるんだけど」って言ってたんです。

──それがまさに第一回の〈FESTIVAL de FRUE〉(2017年11月3日、4日)。

FSTIVAL de FRUE 2017

ミハル そしたら田村さんが「静岡だったら、ここにいるよ」とわたしを紹介してくれて。わたしは自分の音楽はブラジルで捨てて帰ってきたし、音楽に対しては劣等感もあってネガティブな部分がヘドロみたいに固まってたわけですよ。ブラジル音楽の情報を見ると壊れそうだからあえて見ないでいたし、KIMOBIGをやっていても日本のブラジル音楽関係者とはあまりつながりがなかった。それこそsaule branche cafeのタクちゃんにもガラナを持っていって会話するまで何年もかかったくらいですから。

 でも「静岡でフェスやるよ」ってアニに言われたし、「いつかエルメートもやりたい」って言う。そのとき、わたしは音楽の話をすること自体ひさびさすぎて鼻血出そうだった。日本にもジスモンチやエルメートを呼んでる人がいることにびっくりしたし、やっとわたしとブラジル音楽がもう一度つながったんです。

 アニには、「音楽のことはできるけど、フードはわからない。(静岡の)おいしいご飯屋さん知ってる?」って聞かれました。「Simplesっておいしいお店があるよ」と答えた。「じゃ、紹介してよ」「いや、でもSimplesってめちゃめちゃいいお店だけど、フェスとか出るような感じじゃないですよ」「声かけるだけかけてみたらいいじゃん」「じゃ、かけてみますか」というやりとりがあって、そこから始まったんですよ。わたし、FRUEのフード管理者になったんです。全部丸投げで(笑)

吉井 めっちゃ丸投げでした(笑)

ミハル わたしはあくまで食べ物係としてやってたのに、あるとき急に「エルメートをまた呼ぶから、アテンドやらない?」って、FRUEから急に音楽が降ってきたわけです。わたしが捨てた音楽が。そもそもわたし、それまでフェスなんて行ったこともなかったのに。だって、そういう青春時代を過ごしてないから。ブラジルに行って帰ってきてからはヘドロだったわけだし、フェス体験とか抜けてるんです。だから、今それをやってるわけです。毎日毎日死んでもいいと思ってやってます。

吉井 2017年1月にエルメートを呼んだときは、まだミハルちゃんは来れなかったんですよ。そのときの来日公演が大成功して、〈FESTIVAL de FRUE〉第一回を開催する流れになるんですけど、初回はファビアーノ・デ・ナシメントくらいしかブラジル人アーティストはいなかったんですよ。そのときにフードでミハルちゃんに入ってもらい、2018年のツアーで初めてアテンドでミハルちゃんに入ってもらったんです。

2018年のエルメート・パスコアール・ツアー

──まさに八代公演の第一回目が行われた年ですね。その年、ぼくも八代で初めてミハルさんに会いましたけど、今話を聞いてきて、そのときが初アテンドだったとは思えないくらいはじけた感じでしたよ。

ミハル すいません(笑)

吉井 ツアー中、毎晩バンドのメンバーはお酒を飲むから、ぼくらもミハルちゃんも付き合うんですけど、必ずパゴージ(サンバの一種)が始まるんですよ。

ミハル そこら辺にあるものを何でも叩いたりね。

吉井 (ミハルは)手が真っ赤になるくらい盛り上がってましたね。

ミハル 手のひらに青タンできるくらいね。でもわたしも酔っ払ってるからまったく覚えてない(笑)

(第三回につづく)

ブラジルでのミハルさん(左端)

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Hermeto Pascoal e Grupo
エルメート・パスコアール&グループ
Hermeto Pascoal e Grupo来日メンバー
Hermeto Pascoal (keyboard, accordion, teapot, bass flute, his skeleton, cup of water...)
Itibere Zwarg (electric bass and percussion)
Andre Marques (piano, flute and percussion)
Jota P. (saxes and flutes)
Fabio Pascoal (percussion)
Rodrigo Digão Braz (drums and percussion)

11月11日(土) 16:00 青森・八戸市南郷文化ホール / with 折坂悠太

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