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こだわりから差別を考える

雑誌『現代思想』特集「部落民とは誰か」を読んでいて,次のような文に出会い,少々考え込んでしまった。

…差別されている側とマジョリティの間には対称関係はない,差別されているという体験において,マジョリティの側がその体験を知りようがない以上,自分の基準で相手を比較したり考えたりできなくなってしまう。ところが相手が知らないことについて,差別されている側は訴えるしかないわけですね。それを訴えても相手には絶対に通じないという非対称的な関係,それが差別の構造だ…

このことは,よく言われる「踏まれた者の痛みは踏まれた者しかわからない」と同質のことであるが,以前私は,この言葉を聞く度に,「踏む人間がなぜ踏むのかが踏まれる者にわからないように,踏む人間が踏むことで(身体的ではなくとも精神的に)痛みを感じることもある」という意味のことを言っていた。
被害者意識からは何も生まれないと思うから,必要以上に抵抗した傲慢さがあったと反省もしているが,上記の論理からすれば,非対称であるがゆえに通じ合わないということになってしまう。

ここで,ふと考え込んでしまった。痛みをわかり合うことは,必ずしも同質・同等でなければいけないのだろうか。差別が関係性から生じるのであれば,非対称的な関係であっても,関係性の修復もしくは弁証法的に発展していく関係性の構築は為し得ることができるはずである。「差別の構造」を分析することが目的の研究者と異なり,教師の目的は「差別の構造」の打破である。
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「こだわり」という面で,関係性を考えるならば,部落にこだわるということは,部落民にとっても,部落民以外にとっても,決してプラスではないことを認識することが最も重要なことである。しかし,どうもこの点を曖昧にして,どちらかの問題とか,被差別者の(立場ではなく)味方でないと同和教育ではないかのような考えが広まっているように思う。このことを自らの視点として明確に認識していなければ,極端に言えば同和教育は部落民のための教育にすり替えられてしまう。

上記の雑誌に,渡辺俊雄さんが「からの解放」「としての解放」が解放運動の従来からの2つの流れであるけど,第3の方法もあるのでは,と提唱されていたが,読んでいて,私が言いたい「こだわりからの解放」と非常に近いものを感じた。

部落出身であることから解放される(逃げる・忘れるの意で)という「部落からの解放」でも,部落出身であっても差別されないような部落外の人間や社会をつくっていくという「部落としての解放」でもない。個人としての生き方でとらえていく第3の道がある。 

…普段は部落出身だと言うことを越えて友達と付き合っていくという生き方もあってもいい。そういう人が部落出身であることにぶちあたったとき,私は部落に生まれた人間なんだと言ったときに,友達が掌を返すように逃げていかないような社会であって欲しいし,そんなことは気にしないで忘れてしまえと気軽に言われないような社会であって欲しいと思うんですね。それは結局誰がどう生きるかということに関わってくるわけで,個人の生き方の問題だ…。いろいろな生き方を許容するような社会が逆に問われている…

部落に生まれたからわかることがあるように,部落外に生まれたからわかることもある。それを互いのメリットに変えていけることができる教育が求められていると思う。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。