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光田健輔論(26) 浄化と殲滅(7)

「本妙寺事件」に関与した十時英三郞や宮崎松記らが本妙寺集落に居住するハンセン病患者に対して、どのような認識を持っていたかを検証してみたい。
「本妙寺事件」については、熊本県ホームページに掲載されている「熊本県「無らい県運動」検証委員会報告書」が最も詳しく論証している。以下、抜粋・転載しながら検証してみたい。

https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/49738.pdf

…本妙寺集落においても強硬な強制隔離論を唱えたのは方面委員(民生委員)の十時だった。十時は1934年の調査の後、「不浄化地区浄化計画」と名付けた私案を作成。これによると集落は「患者と貧民が雑居」しているため「伝染力は大」としている。また集落では「生活起居わがまま放題を演じ得る」ため「療養所を飛び出し住す」患者が多いと指摘。この二つの理由から「一日も早く浄化すべき」と訴えた。「浄化」の具体策としては集落内の住居を全て買収し一帯を公園化。近くの山に患者収容所を建設しここに患者を一時収容した後、療養所に移すとしている。…
1936(昭和11)年に開かれた熊本市長主催の「衛生座談会」でも本妙寺集落が議題に挙がった。座談会に出席した宮崎松記九州療養所長のものとみられるメモには「皇紀二千六百年を期して熊本市より癩を根絶す」「癩部落並びに西洋人経営の癩病院が今尚存することは日本の国辱」「観光都市としての熊本市を考えるとき癩部落の存在は不都合」と記されている。
本妙寺集落について十時は、かなりの偏見を持って臨んでいたようだ。1934年の調査報告では「住民は癩患者のみにあらずして、前科者にて改心の状なき者又は賭博常習者、其他多くは不良性を有する者多く、癩患者中には病気自体のため捨身となり居る者もあり、従て心気甚だ荒く調査に下手をやれば血の雨降る惨状も呈しざるやと懸念し居りたる」と記述。…「不浄化地区浄化計画」でも「不潔狭隘の内に腐爛せる癩患者、盲人、ドン底生活の落伍者、不良者、賭博常習者等雑然として入り交じり居住して」と記し、警官も足を踏み入れない「治外法権的」な地区としている。…十時の記述には自身の調査がいかに困難な環境下で遂行されたものかをアピールし、「浄化」の必要性を訴えるために、集落住民の「不良性」をことさらに誇張しているように思われる。

私が本論考において検証しているのは、ハンセン病問題を生み出した「要因」である。「絶対隔離政策」「断種・堕胎」「特別病室(重監房)」など、ハンセン病問題の歴史的実態を検証していくほどに、その実態を生み出した人間たちの「発想」「思考」「志向性」とそれらの背景が見えてくる。時代の制約もあるだろうが、彼らの人間観や人権意識の偏狭さに恐怖すら感じる。逆に人権意識は確実に拡大してきたとも思う。だが、まだまだ不十分であり、現在も大きな課題となっているジェンダーの問題や人種・民族問題、部落問題などに通底する価値観や人間観には、この時代の価値観や人間観が残存している。それゆえ、ハンセン病問題を生み出した価値観や人間観を明らかにしておく必要を強く感じている。

たとえば、上記で十時英三郞の「偏見」が指摘されているが、彼の言動やハンセン病患者への視線を「偏見」とみなすのは、現在の価値観であり人間観である。宮崎松記が「日本の国辱」「癩部落の存在は不都合」と論じるのも当時では一般的な認識であった。何より「浄化」という考えが当たり前であったことが恐ろしい。「浄化」の背景には、日本の歴史に内在してきた「賤視観」があり、そこに「優生思想」などが加わって形成された国粋主義がある。

では、本妙寺集落は、十時や宮崎が言うような「治外法権的」な犯罪者が集まる無法地帯だったのだろうか。

このころ、本妙寺集落の患者住民には1935(昭和10)年ごろ設立された「相愛更生会」とい
う患者互助組織が根を張っていた。集落に住む患者の3分の2が会員だったという。会長は会員間の選挙で選ばれた中村理登治という人物だった。…
「相愛更生会」は春と秋の2回、朝鮮半島まで含め全国を回り寄付金を募った。…「蹴込み」や「勧進」と呼ばれた物乞い行脚と違い、趣意書や領収証も作り熊本県に寄付金募集の認可申請もしていた。寄付金は集めた本人が独り占めすることなく生計の道がない重症者らの生活費にも充てられた。菊池恵楓園自治会誌『菊池野』(1959年7月号)に「相愛更生会」会員だった男性の話を聞いた記事が掲載されている。ここでは募金活動を「ケコミ」と記しているが「ケコミで自分の腹だけを肥やすのではないというのだ。同病相憐の道がひらかれているのだ。弱い同病者の生活力も守らなければならない義務があるのだった」としている。また「病人同志療養所で結婚しても子供を産むことを許されない。だから、妊娠した病者が他の多くの施設からも集まって来て、そこで子供を産み生活を営んだのだ。―みんな九療(九州療養所)よりのんびりしてずっといい生活ができた。だから九療のみんながうらやむのである」と一般社会と変わらぬ家族生活が営めることも魅力であることを記している。

同じ光景を見ても、人間の主観によって記述内容は大きく異なる。このことは、管理側の人間、たとえば光田など療養所長が書いた記述と患者側の記述を読み比べれば明らかである。

…「相愛更生会」は、寄付金を使って群馬県草津温泉の湯ノ沢集落をモデルにした療養所や礼拝堂を備えた自由療養地の開設も計画していた。…この協力要請に回春病院のライトと思われる「ある外人」は「患者自治による療養所を新設した方がよい。開設当初は生活費を補助して、将来的には自給自足にさせる」と支援の意を示した。これに対し九州療養所の宮崎松記所長は「本妙寺周辺を住み心地よい場所にしてもらっては、せっかくの隔離療養、伝染予防の趣旨が壊れてしまう」と強く反対したという。

宮崎には「隔離」が前提であり、目的(趣旨)は「伝染予防」であった。「浄化」とは、ハンセン病患者の療養所ヘの強制収容によって「本妙寺集落」の「解体・解消」を行うことであった。つまり、「本妙寺集落」の完全なる「消滅」が「浄化」なのである。

人はよく<他者のため、社会のため>と言って、自らの言動を<正当化>する。どれほど理不尽であり横暴なことであっても、その言動によって他者が深く傷つき、人生を破壊されようとも、自らを省みることは少ない。今では考えられない「人権蹂躙」の行為であっても、その当時は平然と行われていた。そんな過去を暴いても仕方ないだろうと言う声も聞く。しかし、たとえ時間を戻すことができなくても、歴史的事実を明らかにすることによって、その<正当化>の論理がいかに多くの問題を生み出すことになったかを将来に対する<教訓>とできる。

光田健輔ら絶対隔離推進者の論理、彼らの自己正当化、頑迷さ等々は、姿形は変わっても、現在においても残存し続けていると感じる。インターネット上に蔓延する誹謗中傷・罵詈雑言の類いは狡猾さを増しながら増加し続けているが、その根底には一方的な正義を振りかざし、自己正当化に終始する論理がある。


「本妙寺事件」の直接的な背景と経緯を見ておきたい。

1940(昭和15)年に厚生省が「無らい県運動」の徹底を通知。同年5月には国公立療養所長会議が開かれ「浮浪らい部落の迅速なる解消及び各療養所の協力」との議題で論議。警察の協力を要望する声が強く出された。この会議の要望には潮谷も関わったと、自身が『神水教会五十年史』(1982年刊)に書いている。それによると、本妙寺集落に居住していた患者6人が九州療養所への入所を希望したが、療養所から逃走歴があったため断られ長島愛生園に連れていった。そこで光田健輔園長と本妙寺集落について話し合い、潮谷は「患者を療養所に入れて、この戦時体制に安心して療養に専念することができるように仕向ける以外に彼らの真の幸福はない」と進言。光田は深くうなずき所長会議で「らい部落解消」を提言したという。また、九州療養所の宮崎所長も潮谷の意見を聞き、強制収容に賛同したとしている。

上記の「国公立療養所」という表記はまちがいである。この時点では療養所はまだ「国立」ではない。この「官公立癩療養所長会議」において、「公立療養所の国立移管に関する議案」が提出され、1941年7月、すべて国立に移管された。なぜ、「国立移管」なのか。その理由は、出費している道府県に縛られずに全国から患者を収容できることになり、隔離の徹底が促進されるからである。これにより「無らい県運動」のさらなる進展が期待された。しかし一方で、「無らい県」達成の最大の障害が「癩部落」の存置であった。

「本妙寺の癩部落解消の詳報」によると、熊本県警察部長として1940年5月に着任した山田俊介が本妙寺集落の問題を聞き処分を決意。同年7月6日に厚生省、熊本県、国立療養所・長島愛生園、同星塚敬愛園(鹿児島県)、九州療養所の職員が参加して警察部長室で会議を開き、7月9日早朝に本妙寺集落患者の強制収容を行うことを決めた。県警でも九州療養所でも強制収容は事前には一部の幹部にしか知らされなかった。これは秘密保持とともに「当日になって警官らが尻込みして、欠勤が続出する恐れがあったため」(宮崎所長)という。9日午前4時、非常召集がかけられ、警官、療養所職員、県職員ら約220人が集落を取り囲んだ。まず各戸の戸口に患者の家を示す目印とその人数が書かれ午前5時、制服警官と白衣姿の療養所職員らが集落内になだれ込んだ。

「ささやかな幸せと平和であった私共の生活が、突然降りかかってきたあの忌まわしい事件によって一朝にして潰え去ってしまったのです」。菊池恵楓園入所者の大島シゲが、事件の様子を同園入所者自治会誌『菊池野』につづっている。大島は当時、本妙寺仁王門そばの長屋に夫婦で住んでいた。事件の朝、夫は散歩に出掛け大島は朝食の支度をしていた。「出てくれ、出てくれ」と叫ぶ声がするので、外をのぞくと白衣の男たちが家を囲んでいた。「朝早くから何事ですか」「診察があるんだ」「診察って何の診察ですか」「あんたたちが社会にいて病気の様子が変わっていないか、病院に入らんといかんのじゃないかとか、そんなことだ。すぐ済むから来てくれ」。大島は「只事ではない」と直感し預金通帳と着替えを持って仁王門の石段下に行った。そこにはおおぜいの住民が警官に囲まれ寝間着姿のままの人もいた。「早く乗れ」と警官に追い立てられトラックの荷台に乗せられた。トラックは九州療養所に向かい男性は 1938(昭和13)年に開設された県警留置所、女性は監禁室に入れられた。

収容は3日間続き、157人が拘束された。宮崎所長は厚生省予防局長への私信に収容の様子に
ついて「最高82才の老人から最低生まれたての赤坊までの百鬼夜行の老若男女150余名を一時に留置したる光景は見物に御座候」と書いた。また、著書『小島の春』で著名な長島愛生園医官の小川正子は結核療養のため休職中に、本妙寺事件に参加した愛生園職員に手紙を書き事件を「本妙寺討ち入り」と記述。小川の療養先の別荘に遊びに来ていた愛生園の同僚も「本妙寺のお掃除にお出かけの由、御苦労様」と書いた。集落の患者をそれぞれ妖怪、敵役、ごみに模したこれらの手紙によって、療養所関係者が自分たちの意向に沿わない患者をどのように見ていたかが分かる。

少しでもハンセン病問題に関心のあれば小川正子と『小島の春』は知っていることだろう。小川正子は、東京女子医学専門学校から全生病院の見学に行った時に光田健輔と出会い、卒業後はハンセン病医療を志して、1933(昭和8)年に長島愛生園医官に就任し、瀬戸内の島々や四国各地などでハンセン病患者の隔離収容に奔走したが、1937(昭和12)年に結核を発病し、療養生活を送るが、1943(昭和18)年に死去した。『小島の春』は光田の勧めで雑誌『愛生』に執筆した患者の隔離収容の記録を一冊にまとめたものである。

小川正子と『小島の春』の功罪については別項で論じたいので、ここでは述べない。ただ、小川や宮崎、愛生園職員にとって、ハンセン病患者は「素直に収容隔離に応じる者」であって、それ以外は「百鬼夜行」でしかないという彼らの考えが、日本のハンセン病医療政策を歪めてしまったことは明らかである。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。