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光田健輔論(23) 浄化と殲滅(4)

「救癩」という言葉に込められた<欺瞞>もまた世間の目を巧妙に欺く役割を果たした。藤野氏は次のように述べる。

「救癩」とは、国家の絶対隔離政策を前提に、それを推進するための世論啓発、献身的と賛美された療養所職員への感謝、隔離された患者への慰撫の諸行為を意味する。そして、こうした「救癩」を掲げた活動には多くの宗教者が参加した。賀川豊彦が中心となってキリスト者により設立された日本MTL、武内了温が中心となった真宗大谷派光明会などの活動がそれである。
荒井英子は「そもそも「救癩」という言葉には「救う者」と「救われる者」、「与える者」と「与えられる者」といった上下・貴賤・浄不浄関係が発想の前提としてあること」を指摘し、「救癩側」にとって正しいことは、患者にとっても幸福であるという思い込みがあったと指摘しているが(荒井英子『ハンセン病とキリスト教』岩波書店)、こうした思い込みゆえに、癩予防協会や日本MTL、真宗大谷派光明会などの「救癩」団体は、隔離されることこそが患者の幸福であると理解し、国民には患者への同情を説き、患者には信仰生活のなかで隔離を受容することと国家・皇室・国民に感謝して暮らすことを求めた。まさに、こうした「救癩」団体が、無らい県運動の世論をつくり、運動を現場で担っていくのである。
…無らい県運動は、皇室の恩を前面に出し、ハンセン病患者への同情を説きつつ、隔離政策を正当化する世論を喚起していった。哀れな患者は隔離施設に入ることが幸せであり、国にとってもハンセン病撲滅のための最良策であると考えられていたからである。

藤野豊「無らい県運動の概要と研究の課題」『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』

光田が欧米のキリスト教宣教師たちの「救癩」という考え方に強い影響を受けたと指摘するのは、「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟西日本弁護団共同代表である徳田靖之氏である。

その光田が、隔離政策として「孤島隔離論」を明らかにしたのは、1915(大正4)年に内務省に提出した「癩予防ニ関スル意見」においてであり、ここでは、その構想の神髄が「島に移すというと残酷に聞こえるが、患者はあちこちで苦しめられるよりも、一つの楽天地に入ることを希望している。島に一つの立派な村落ができ、宗教的慰安や娯楽ができれば、そこは一つの楽天地である。逃走できない絶海の孤島にそういう設備を作れば、そこで一生を終えるという考えを持つようになる」と明らかにされている。

徳田靖之「救らい思想と無らい県運動」『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』

この光田の考えを「外の差別から守るため」と「隔離政策」を善意から解釈して擁護する吉崎一氏のような研究者もいるが、患者の何人が「希望している」だろうか。外で差別を受けるよりも「宗教的慰安や娯楽」の設備のある絶海の孤島を選ぶ患者がどれほどいるだろうか、私は疑問である。
続けて、德田氏は「光田健輔の救らい思想と無らい県運動」と題して、光田の考えを次のように要約する。

第一は、社会内で苦しめられるよりも、社会から隔離された施設で生活するほうが患者にとっては幸せだという考え方である。この考え方には、患者の苦難の原因であるハンセン病の発症という事実と社会的差別の存在について、これらが不変のものであるという考え方が前提とされている。前者は不治の難病であり、後者は解消されることがないという考え方である。
光田の「救らい思想」がハンセン病問題の根本的な解決のために、治療方法の開発や差別解消に向けての取り組みに、その重点をおくことを志向しなかったのは、こうした前提に由来している。
第二は、地域社会へと帰れない状況に閉じ込め、宗教的慰安と娯楽を与えることで患者に楽天地であると受け入れさせることができるという考え方である。
家族と別れ、地域社会から永久に離れるという痛苦の代償として、宗教的慰安と娯楽しか与えることができないということを前提として、そのゆえに絶対的隔離が必要だという考え方である。
…隔離によって生じる家族との離別に変わっての大家族の提供という論理は、まさしく救う側の人間の発想でしかない。
こうした光田における「救らい思想」は、患者を差別に満ちた地域から根こそぎ療養所に取り込み、家族や地域社会と隔絶することを患者にとっての救いであると捉えていたことが明らかであり、それゆえに「楽天地」建設のため、無らい県運動の必要性を愛生園開設の当初から認識していたということになる。

徳田靖之「救らい思想と無らい県運動」『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』

ハンセン病の専門医にはキリスト者が多く、外国人宣教師がハンセン病患者の救済に使命感をもって取り組んだように、彼らも自ら人の嫌がるハンセン病医療の道に進んでいる。たとえば、宮崎松記や林文雄、犀川一夫、小川正子、神谷美恵子などの専門医、療養所に勤務する看護師(婦)や職員にはキリスト教の信者が多かった。

…1987年に改訳された『新共同訳聖書』では、「らい病」は「重い皮膚病」と訳された。しかし、無らい県運動に励んだキリスト者たちは、「癩病」「らい病」をハンセン病と理解し、自らの信仰の証として、イエスがハンセン病患者を癒した事績に従おうとしたのである。そこに「救癩」という理念が生じ、キリスト者は何の疑念もなく無らい県運動に邁進した。「救癩」、それはハンセン病患者にとり隔離されることが救いであると決めつけ、一人でも多くの患者を療養所に送り込み、彼らにキリスト教を布教することで、不満を持たず、社会に感謝して隔離の生活を受容させる論理である。
日本のキリスト教団の牧師として多摩全生園内の秋津教会を牧会した荒井英子は、ハンセン病患者が「神から罰せられ見放されているかのような極限状況にあるからこそ」、キリスト者は、その救済に取り組み、そのとき、「患者の内にキリストを見、苦難の代理人というレッテルを押し付けることによって、結果として患者の人権・人格を見えなくしてしま」ったことを指摘、そこに、キリスト者が絶対隔離政策に疑念を抱かなかった理由を求めている。そして、そうであるからこそ、キリスト者の「救癩」団体は「強制隔離の世論形成とともに「無癩県運動」を率先して担い、国策を他に先駆けて積極的に推進した」と述べ、無らい県運動とキリスト教の関わりの深さについても重要な指摘をおこなった(荒井英子『ハンセン病とキリスト教』)

藤野豊「無らい県運動を支えたキリスト者の信仰」『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』

続けて、藤野氏は荒井英子氏による指摘を、戦前と戦後における「無らい県運動とキリスト教」の関係について歴史的に検証している。藤野氏の考察より抜粋して引用し、重要事項をまとめておく。

1924年11月9日、東京基督教青年会の会員などで構成するイエスの友会の会員ら10数名が全生病院を訪れ、これを機に日本のキリスト者による「救癩」の運動を起こすこととなり、1925年6月10日、欧米の運動にならい組織の名称を日本MTLと決めた。
日本MTLの理事には賀川豊彦や全生病院長光田健輔らが就き、理事長に東京府社会事業協会幹事小林正金が就任し、全生病院を対象に慰問と布教、隔離推進の世論啓発を活動の中心としていく。つまり、日本MTLは光田が推進する絶対隔離の実現を支持する外郭団体となり、無らい県運動の推進に大きな役割を果たすことになる。特に、光田健輔と賀川豊彦の主導的立場は強く、藤野氏が「賀川と光田のふたりを中心に結成され、活動していったと考えられる」と断言するほどである。また、全国各地にもMTL組織が生まれ、全国MTL協議会が結成される。
1931年に「癩予防ニ関スル件」が「癩予防法」に改正され、絶対隔離の方針が明記され、国策は療養所ヘの隔離強化に向かい、無らい県運動も本格化されると、日本MTLは療養所の拡張を議会に請願する署名活動を展開する。
1936年からは隔離への国民の理解を求める出張講演会を企画する。さらに、長島愛生園が「十坪住宅」を計画すると、日本MTLも全国のキリスト教主義学校などに呼びかけて、1937年までに1300円を寄贈している。
1939年、日本MTLの定期総会で、光田健輔は顧問となり、小林正金に代わり賀川豊彦が理事長に就任している。また日本MTLは、1941年に楓十字会に、1942年に日本救癩協会に改組・改称されていった。

藤野豊「無らい県運動を支えたキリスト者の信仰」『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』

藤野氏は続けて、「戦後における無らい県運動とキリスト教」と題した項で、戦後になっても日本救癩協会は光田健輔と歩みを一にして、絶対隔離および無らい県運動に積極的に関わっていくことを検証している。戦後に関しては後に考察する予定なので、今はこれ以上は言及しない。


德田氏の「光田健輔の救らい思想と無らい県運動」を参考に、光田健輔と彼に連なる日本MTLなどの「救らい思想」について明らかにしてみたい。
德田氏は、上記の引用に続けて、次のように述べている。

しかしながら、その「取り込み」を効率的に遂行する手段として、ハンセン病に対する差別と偏見に満ちている地域社会の構成員である住民を動員するということは、その差別や偏見をいっそう助長するということになるはずであり、患者は地域社会で生活することを許されない存在として、激しい排除にさらされることになる。
社会の偏見から守るという「救う」行為が、逆に偏見や排除を助長し、激化させるという結果をもたらすという点に救らい者が提唱した無らい県運動の深刻極まる背理があるというべきであろう。

徳田靖之「救らい思想と無らい県運動」『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』

私は、光田健輔によって発想された「絶対隔離政策」や「無らい県運動」「十坪住宅運動」などを検証するたびに痛感するのは、<目的のために手段を正当化してはならない>という論理である。キリスト者たちの「救らい思想」は<目的>としては正しいし、むしろ崇高な理念とさえ思うが、その<手段>は、荒井英子氏が看破した「救う側」の独善性による発想である。

以上のような光田に代表される救らい思想やその思想に共鳴して積極的に無らい県運動を展開した日本MTL指導者らが標榜する「救う」という発想の本質が露呈したのが、1936年の「長島事件」である。
(徳田靖之「救らい思想と無らい県運動」『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』)

「長島事件」については、私も詳細を書いているので、読んでいただきたい。

私も上記の「Note」においてその問題点について検討しているが、特に、日本MTLの理事である塚田喜太郎の「長島の患者諸君に告ぐ」は「救らい思想」の本質を端的に表している。一部を抜き書きする。

井の中の蛙大海を知らず,とか。実際井の中の蛙の諸君には,世間の苦労や不幸は判らないのであります。随って,如何に諸君が幸福であるか,如何に患者が満ち足れる生活をさせて貰ってゐるかを知らないのであります。蛙は蛙らしく井の中で泳いで居ればよいのであります。生意気にも,大海に出様等と考へる事は,身の破滅であります。又,大海も蛙どもに騒がれては,迷惑千万であります。身の程を知らぬと云ふ事ほど,お互いに困った事は無いのであります。(中略)患者諸君が,今回のごとき言行をなすならば,それより以前に,国家にも納税し,癩病院の費用は全部患者において負担し,しかる後,一人前の言ひ分を述ぶるべきであると。国家の保護を受け,社会の同情のもとに,わずかに生を保ちながら,人並みの言い分を主張する等は,笑止千万であり,不都合そのものである。

塚田喜太郎「長島の患者諸君に告ぐ」『山櫻』18巻10号 1936年

德田氏は、この塚田喜太郎の一文の背景に「救らい思想」の本質を見抜いて、次のように述べている。

無らい県運動を主導した「救らい思想」に、このような患者観が内包されていたことは、その旗印としての「救済」なるものが、気の毒な立場に置かれている人びとに対する救う側にいる人間の「同情」ないし「温情」にすぎず、救われる側の人権回復を求めての運動を身の程知らぬ笑止千万の所業と嫌悪する。およそ「救う」という言葉とは程遠い二面性を特徴としていたことを如何なく明らかにしている。
このことは、「救らい思想」なるものが、救われる側にいる患者が救う側にいる人間に対して感謝を示し従順である限りにおいて、限りなく慈愛に満ちた対応を導く反面、救われる側にいるべき患者が抵抗し、あるいは逆らうという態度を示すに至るとこれを嫌悪して排斥するという二面性を有しているということを意味している。
こうした「救らい者」の二面性こそが、光田らに対する入所者の評価の極端な二分化をもたらしたのであり、一方で慈父のごとき偉大な救世主として今なお敬愛してやまない入所者が存在し、他方で冷酷な隔離主義者であるとして酷評されるという事態を生じさせたということができる。

徳田靖之「救らい思想と無らい県運動」『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』

最近の研究者のなかには、この「二面性」や「背理」について、一方に偏っているとの見解からむしろ従来とは逆に肯定的な立場を重視するものが増えてきている。光田健輔の功績を過大解釈することで、絶対隔離政策さえも正当化しようとする。「救う側」の尽力があったから患者の多くが救われたのだという「救う側」の一方的な論理を肯定する立場である。

德田氏は、この「救う側」の論理の危うさが「黒川温泉宿泊拒否事件」を引き起こしたと考察する。菊池恵楓園に入所しているハンセン病患者の「ふる里帰り事業」で予約を受けていたホテル側が他の宿泊者への「迷惑」を理由に宿泊を拒否した事件である。ホテル側は非を認めて謝罪したが、その不十分な対抗に抗議した入所者に対して、全国から300通以上の誹謗中傷の手紙やメールが寄せられた。

注目すべきことは、これらの非難の論旨が、前掲の長島事件に際して、日本MTLの塚田理事が発した「長島の患者諸君に告ぐ」と驚くほど酷似しているということである。「国家の保護を受け、社会の同情の許にわずかに生を保ちながら、人並みの言い分を主張するのは、身の程を知らぬ」と激怒する点においてである。

徳田靖之「救らい思想と無らい県運動」『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』

私も入園者自治会がまとめた『黒川温泉ホテル宿泊拒否事件に関する差別文書綴り』を一読したが、書き殴った暴言や恫喝の言葉、罵詈雑言に混じって、的外れで自分勝手な論理ではあっても主張や意見をきちんとした文章に書いている人間も多かった。だからこそ、その的外れで自分勝手な論理が恐ろしいのである。その「救らい思想」を危惧するのである。

人生そのものを奪い去られる被害を受けた人たちが、あくまでも同情されるべき存在として慎しやかに存在する限り、限りなく同情もするし理解もするが、「人並みの言い分」を主張しはじめると身のほど知らずと嫌悪するに至るからである。
無らい県運動の渦中において、住民の多くは心ならずも加害者の役回りを演じさせられたのだが、その行動を正当化した論理が「患者」の救済のためであれ、深い「同情」に基づくものであれ、あるいは「恐ろしい伝染病」から社会を守るため等という国の誤った宣伝に乗せられたがゆえの恐怖心や「使命感」によるものにしろ、その共通の病根として、自らが差別する側にいるという加害者性の認識が欠如しており、それゆえに差別される側にいる人たちの側に立つという視点の重要性を省るということが失われ続けてきたということを私たちは、同事件の教訓として胸に刻みつけておく必要がある。

徳田靖之「救らい思想と無らい県運動」『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』

これは何もハンセン病問題に限ったことではない。「善意の第三者」という言葉があるが、「善意」ほど、その真意がわかりにくいものはない。本人は自らの言動を「善意」によるものと思い込み、「正当化」あるいは「肯定」する。
先の「黒川温泉ホテル宿泊拒否事件」でのハガキや手紙には、「何故ならば一緒に入った人に不快な思いをさせたくないという気配りです。貴方達ももう少し謙虚になりなさい…謝罪をされたホテルの人に対して声高らかに抗議している貴方達の見苦しさに我慢できず便りしました」「世間の人達(公共機関の人達)がたてまえで口にしている言葉をうのみにして、本気になって思い込み、負けん気で権利をふりまわして表面的な活動をすることは、我が身を知らない人間(身のほど知らず)だと思われるでしょう」等々が「善意」で書かれている。
社会的弱者が憐れみに感謝して従順であれば「同情」も「温情」も「慰安」も向けるが、対等の立場で同等の権利を主張すれば、「(弱者である)身の程を知らぬ」傲慢で「謙虚」さに欠ける人間とみなされて攻撃される。つまり、「救われる側」の人間が「救う側」の人間と対等・同等であることは許されないのだ。自分より劣っているから「救う」という論理がある。それは優越感を満たす、自己満足の論理である。なによりも、社会的弱者はいつまでもその立場に甘んじることを求められる。

無らい県運動の弊害は、同じ人間を「ハンセン病患者であるかないか」を基準として「救う側」と「救われる側」に大別し固定したことである。そして「救われる側」である患者は「救う側」が設定したルールを守ることを強要され、その中でしか生きられないように、まさに「飼育」されたのだ。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。