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岡山の部落関係史:岡山藩7

江戸時代の史料を元に、先達の研究成果を借用しながら年代別にまとめている。

幕末に起こった岡山藩最大のできごと、「渋染一揆」を含めて、明治初年までを一区切りとする。江戸時代の約270年間、その長さを教科書や通史では意識することは少なく、幕府政治の流れを辿るだけに終始している。しかし、明治から現在(2023)で約160年間、比べてみれば江戸時代の歳月の長さを想像できるだろう。あらためて長期政権であり、太平の世であったと実感する。長期政権が維持できた理由はいろいろとあるだろうが、やはり支配体制の根幹に「身分制度」があり、身分と役目(約負担)が巧妙にシステム化されて機能したのだろう。

「渋染一揆」については、拙ブログを参照してほしい。なお、今までの考察をもとに、新たに「論文」として書きたいと思っている。


◯1813(文化10)
 小田郡吉田村庄屋が関戸村氏神山林小前持山野山へ穢多が入らぬこと、関戸村作道を穢多が馬喰牛を追い通らぬよう関戸村役人へ取り決めを報告(戸川家文書)

◯1823(文政 6)
 上道郡久保村穢多長之介が4・4年前より帳外船で働いたことにより処罰。船株を取り上げ村追放(法例集)

◯1824(文政 7)
 小田郡甲怒村穢多長蔵が渡海船鑑札願を出す。皮蠟を大坂渡辺村和泉屋平次郎へ送る

◯1842(天保13)
 穢多へ渋染等着用の命令。中止(屑者重宝記)

◯1855(安政 2)
 「平百姓・穢多町人隠亡ニ至迄」倹約令(屑者重宝記)

◯1856(安政 3)
 穢多へ「別段御触出」(屑者重宝記)
 “渋染一揆”の強訴(屑者重宝記・禁服訟嘆難訴記)

◯1859(安政 6)
 “渋染一揆”の指導者釈放

◯1867(慶応 3)
 久米南郡西幸村穢多掃除主孫四郎、掃除役差し留め、庄屋が仲介し、元通りとなる(三保村史資料集)

◯1871(明治 4)
 政府、弊牛馬持主勝手処置を布告(太政官布告)
 政府、府藩県一般戸籍法改正を布告(太政官布告)
 政府、穢多非人等の称廃止を布告(太政官布告)
 倉敷県、「賤称廃止令」(解放令)を布達(倉敷市史)
 岡山県、山の者(非人)につき、従来は町方が支配したが、以後は村々へ送籍すると指示。陰陽師・説教・隠亡などの称も廃止(法例集後編) 

穢多非人等之称被廃、一般民籍ニ編入シ、身分職業共都て同一ニ相成候様可取扱、尤地租其外除蠲之出来も有之候ハゝ、引直シ方見込取調大蔵省へ可伺、猶又自今自分職業共、平民同様たるへきとの御達御座候付、左之通
一 山之者と相唱へ平井山・門田山ニ居申非人共、是迄町方差配之処、向後其村々え送籍為至、其外在・町所々ニ居申非人共、其所々え入籍為致可申候哉、
一 陰陽師并説教・隠亡等之称廃止可申奉存候、左候ハゝ社寺手配下之者も御座候得とも、自今其村所々之差配ニ可仕奉存候、右何れも之内、是迄地租除蠲之地ニ住居致シ候者共ハ、相當之租税取立候様可仕候哉、右之段奉窺候、

(「法例集後編」『藩法集・岡山』下)

「賤称廃止令」(解放令)布告後の具体的処置や方策を示している。両山非人は村方へ送籍すること、陰陽師・説教・隠亡等の称も廃止し村方で把握することを指示している。

  告諭大意
第一条
戸籍といふはやはり是迄の宗門帳の名目を唱へ替たるのみにて、是迄の宗門帳が疎漏(あらめ)なるによりて今度は今少し精しくせよとの仰なり、其訳は朝廷にて海内(にほんこく)の民の戸数人員一目に見えるやうになされたき也、一目に御覧なされたきといふはいかようの辺国遠国にても、御国内の民たるものは一人も残さす父母の我が子や孫を思ふ如く、御慈愛の御心の至らぬくまなきようにとの深く有難き思召より出たることなれば、可愛き娘やたとひ牛にもいたせ,遠き国へやるなど其他さまざまの譫言は皆わきまへなき者の作り出て、人をそそのかす事にて、耳にも心にもかけまじき事ぞ
第二条
世界万国の形勢大小変遷して、昔は人の交りもならぬやうにきゝ伝えたる外国も、今は殊の外開けて相互に往来し、信義条理を立て御交通もなさるゝ様に相成、且又、御国内の穢多非人なども、昔いかなる訳にてかいやしき者にあつかひ来りたれども、彼等とて人間に違ひなき者なれば、朝廷の広く厚き御心より、華族上下平民穢多に至るまで、人の類する者は洩らさず大御恵の露をかけ遣はされたし思召にて、此度、穢多非人昔の名目を御廃止になりたるは、同類一視広大至仁の御成徳より出たる事を弁へ、元穢多非人の者たりとも撫育し遣はす様にこゝろがくべし、又外国人とても決して悪み侮るべからず 明治四年未十一月 倉敷県庁

「告諭大意」は倉敷県庁が、1871年11月に、県民に対して、戸籍・賤称廃止・県庁布告遵守を解説した説諭文である。本史料は個人蔵のもので、大森久雄氏の「岡山県の部落問題歴史年表」より引用した。

「賤称廃止令」(解放令)は、同年の8月に全国に向けて明治政府が布告した「太政官第448・9号」であって、短い文言のみである。それを受けた府県がそれぞれの実情に即して文言を付加して通達している。さらには、いくつかの府県では被差別部落民に対して告諭が出されている。例えば「家内煤払いたし、糞灰不浄之品取捨、是迄之火を打消、垢離を取、身を清め、氏え参詣」(安濃津県)、「汚穢を去り、心身を清潔し、然る後に平民同様」(高知県)、「潔く御洗滌ありて」(大阪府)などの被差別部落民への要請が多く見られる。
また、「賤称廃止令」に反発する民衆に対する告諭も、反発の強い府県で出されている。本史料もそのひとつと考えられる。

穢多非人を「いやしき者」と扱ってきたが、彼等とて「人間に違ひなき者」「人の類する者」であるとは、そのように見なしてきた(思って接してきた)と解釈できる。つまり穢多非人は同じ人間と思われていなかった、彼等は人ではないと思われていた。この時点まで民衆の認識であった。さらに、「穢多非人昔の名目を御廃止になりたる」のは、天皇の「大御恵」であるという。ある日突然の、まさに青天の霹靂でしかない民衆にとって、すぐに納得して受け容れられるとは到底思えない。それゆえに反発と暴動が起こっている。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。