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光田健輔論(14) 権力と人権(7)

長島愛生園に知人や友人の家族を案内して訪れたが、幼い子や引率した中学生を目を細めて眺める入所者の姿を見るたびに、言いようのない悲哀を感じた。実際、「私らには子どもがおらんから、この子らが自分の子どもや孫だったら…そう思ってしまう」「今更の様に、あの時の子どもが生きていたらと思うけど…」と、痛恨の思いを語る入所者を何人も知っている。

なぜ光田健輔は、違法である「断種」をハンセン病患者に強制したのか。果たして彼は、この患者たちの思いを想像できていただろうか、私は疑問に思う。むしろ、国家や社会のため、大義のための「尊い犠牲者」という美名に隠して、自らの「理想実現」を完成させることだけを求め、自己満足に浸っていたのではないだろうか。

光田は「断種」についてどのように考えているか、『愛生園日記』の「ワゼクトミー(優生手術)」より抜粋してみる。

…どこの療養所も彼らにとっては、終生の住み家なのである。…禁欲をさせることが患者の異常心理を誘発して、かえって犯罪行為を助けるようなものである。そこで男女の結合を認めて、同病相憐んで生きて行くことが人倫の本道である-私はそう考えていた。
そこで子供が生まれることも自然のなり行きであるから、そこに考えなければならないことが起こってくる。…
…ライは遺伝ではないが、母体がライであればライ菌は血液の中を自由に泳ぎまわって、胎盤を通じて胎児にまで行く。だから生まれた子供は早く隔離してライ菌に接触させないようにして、胎内で得たライ菌が子供の体内で死滅するのを待たなければならない。…潜伏したライ菌が、子供に発病しないとは保証できない。…いつ発病するかわからないという恐れは始終つきまとって、まことにあんたんたる人生である。発病したときは恐らくだれもが「なぜ生んでくれた」と親を怨み「生まれてこなければよかった」と嘆き悲しまないものはあるまい。ところが自分の代になると、そんなことを忘れるわけではあるまいが、平気で子供を生み放すのも、人間の本能に打ち勝てないためである。
男子の輸精管内には、精虫にまじってたくさんのライ菌がいる。おそかれ早かれ造精機能は荒廃するものだが、初期のものは妊娠させ得る精虫といっしょに、ライ菌も排泄しやすいのである。
このような理由で、ライ夫婦は子供を生まないほうがいいので、これは人道上からもライ予防の見地からいっても、重大なことである。

光田健輔『愛生園日記』

この一文に見え隠れするのは、光田の本音である。
光田は男女の情愛を尊重する立場から、聖バルナバ医院長コンウォール・リーや回春病院長ハンナ・リデル、神山復生病院長ドルワル・ド・レゼーなどがキリスト教の倫理によって男女関係を律するべき(婚姻を認めない、男女分離)という主張に反対している。一見、「同病相憐」む夫婦愛を「人道」とする光田の意見は美しく見えるが、そこには性欲の処理を「断種」を条件に認め、性欲を満足させることで、また結婚を認めることで、逃走を防ごうとする目的が見える。
また、光田は胎内感染や妊娠・出産がハンセン病発症に影響するリスクを強調するが、それだけではないと藤野氏は言う。

光田の狙いは、男性患者に女性患者を配して、その性欲を満足させるというもので、男性患者の逃走防止のため、断種を条件に、その性欲の「処理」を認めたというのが実態である。たしかに、男性患者の性欲を療養所が管理することにより、所内の秩序を保たせるという意味が断種にあったことは否定できない。しかし、性欲処理のためではなく、患者同士の信頼にもとづく結婚であっても、そして戦後に至っても、ハンセン病療養所では断種が当然のように強制され続け、妊娠した女性患者には堕胎が強制された。この執拗さを男性患者の性欲管理だけで説明することは難しく、断種・堕胎を強要する側には、誤りであっても、それなりの医学的根拠があったと考えるべきではなかろうか。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

光田の結婚承認は同時に断種承認であった。つまり、光田のねらいは、結婚承認による夫婦の「同病相憐」ではなく、「断種」による子孫の根絶であった。当初は刑法に違反する「断種」であったが、1920年の厚生省保健衛生調査会総会で決定された「根本的癩予防策要綱」では、「患者の請求があれば療養所医長は生殖中絶方法を施行しうる」の条項が明記され、正当化が図られている。まして戦後となり、プロミン治療が行われるようになり、ハンセン病が完治する病気となって以降も、各療養所において医者の手によって「断種」は継続されていった。感染症であり、完治する病気となったハンセン病において、なぜ「断種」が継続されたのか、この矛盾こそが光田による<絶対隔離>の目的であった。

藤野氏が着目したのは、前回述べた「特種部落調附癩村調」との関連であり、「癩村」を調査する目的と「断種」との関係である。

1915年、光田健輔がハンセン病患者に断種を開始した真の理由は、ハンセン病に免疫の弱い体質は遺伝するという認識にあった。そうであるからこそ、「血族結婚」によりハンセン病患者が多いという偏見に曝されていた被差別部落、そして患者の有無に関係なくハンセン病の「血統」とされていた「癩村」の所在について、絶対隔離を目指す光田健輔は確かめておきたかった。そこに、この調査(「特種部落調附癩村調」)がなされた。…
そして、このことと関連してもうひとつの結論が導き出された。「体質遺伝」説はもちろん、それ以外に胎盤感染や精子感染など、親から子にハンセン病があたかも遺伝するごとく感染するという認識が存在し、それが断種のひとつの根拠となっていたということである。絶対隔離を目指し、ハンセン病患者の撲滅を図る光田健輔ら絶対隔離を推進する側にとり、「体質遺伝」にせよ、胎盤感染にせよ、精子感染にせよ、ハンセン病患者が子孫を残すことは絶対に許されなかったのである。ハンセン病患者には生涯に亘って生殖を禁止しなければならない。そのためにこそ、絶対隔離が必要とされたのである。すなわち、絶対隔離をおこなって、その結果として子孫を絶やしたのではなく、子孫を絶やすために絶対隔離を断行したのである。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

「子孫を絶やす」ことが「ハンセン病の根絶」という目的を達成する<手段>であり、その最善の方法が<絶対隔離>であり、<断種・堕胎>であったのだ。だからこそ、光田が繰り返し患者を「犠牲者」と呼ぶ理由である。
だが、この考えはハンセン病患者を地球上から抹殺することに行き着く。ハンセン病患者だけではなく、ハンセン病に罹患しやすい体質の人間をも消滅させる究極の優生思想である。

なぜ「らい予防法」に至るまでのハンセン病に関係する法律に「退所規定」がなかったのか。初めから退所させることは想定されていなかったのである。なぜなら、退所して子どもをつくれば、その子にもハンセン病に免疫の弱い体質が遺伝するかもしれないからである。

藤野氏の「絶対隔離をおこなって、その結果として子孫を絶やしたのではなく、子孫を絶やすために絶対隔離を断行したのである。」という考察は、従来の一般的な見解を覆し、光田の欺瞞を暴いた。つまり、光田は最初から<ハンセン病患者を隔離して治療する>ことを目的としたのではなく、<ハンセン病患者を隔離して絶滅させる>ことを目的としたのだ。療養所を「楽園」「楽土」と見せかけて、実際は一度入れば決して出られない「終生の檻」と考えていたのである。

あらためてハンセン病療養所の最終目的を考えれば、ナチスが開設したアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に代表される「絶滅収容所」と同じであることを痛感する。ナチスによるユダヤ人への大量殺戮や虐待・虐殺はさまざまな書籍や映像などで全世界の多くの人々に周知されている。しかし、日本のハンセン病療養所で行われた非人道的な行為はあまりにも知られていない。
光田は<断種・堕胎>の必要性や美談ばかりを強調しているが、事実はどうであったか。患者自治会が書き残した<証言>や、患者が書き記した自らの身に起こった<事実>を読むとき、光田の自己正当化の偽善を思い知る。

そのほんの一部を紹介する。宮坂道夫氏の『ハンセン病 重監房の記録』に引用されている「女性患者に対して」の「強制的な人工中絶が行われた」事実の証言である。

園内で結婚し、子どもを宿した。妊娠七ヶ月の時、医局に呼び出された。「処置します」。抑揚のない医師の言葉に「主人と相談させて」と訴えたが、医師は耳を貸そうともせず、堕胎手術に取りかかった。「あなたに似たかわいい女の子だよ」。看護師は、まだ生きていた赤ん坊を見せながら、口をガーゼで覆って窒息させたという。
「赤ちゃんは泣くことができず、手足をバタバタさせてもがき苦しみながら死んだ」。

このような<事実>は、ハンセン病国賠訴訟の証言にも、患者の自伝にも、そして私自身が直接に聞き取った実話にもある。それさえも氷山の一角であり、数十年間にどれほどの悲劇が繰り返されてきたであろうか。誰に訴えることもできず、療養所内で権威と権力をもつ医師や看護師、職員による人権蹂躙を泣きながら耐え忍んで死んでいった患者も多い。

それだけではない。宮坂氏は次のように述べている。

このような強制的な断種や堕胎は、単に患者本人や胎児に対する暴力であるばかりでなく、時間をかけ、何十年後にもなって効果を表す「遅効性」の暴力でもあった。断種を受けてから何十年もたって年老いたころ、すでにハンセン病の治癒した回復者たちは、あらためて子供や孫が持てないことを寂しく思った。社会復帰が可能な時代になったのに、頼りになる子供たちがいないことに愕然とする人たちがいた。断種は、長い年月の後に、社会復帰を難しくする弊害をもたらしたのである。

宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』

栗生楽泉園に開設された「特別病室」(重監房)を「日本のアウシュビッツ」と呼んだのは谺雄二氏であるが、私はハンセン病療養所そのものが「アウシュビッツ収容所」に匹敵すると思う。過酷な運命を生き延びた人をサバイバー(生還者)と呼ぶが、彼らはそのあまりの過酷な日々と目の前で起こった残酷な出来事のため、堅く口を閉ざしてしまうという。ハンセン病療養所に生きた患者もまた語ることを封印した者も多い。その中で、沈黙を破り、後世に二度と同じ悲劇を起こさないためにも語り伝えようと立ち上がった患者もいる。彼らの自伝や証言が隠された闇を教えてくれる。我々はその声に学ばなければならない。死者の声に耳を傾けなければならない。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。