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岡山藩の財政窮乏

歴史の教科書において、大名(藩)の財政逼迫(窮乏)について描かれることが多々あるが、実際にどれほどの財政難であったのかが具体例で記述されることはない。(資料集で簡単に書かれてはいるが…)
また、時代小説や時代劇でも描かれるが、どれほどの実情であったかはわかりにくい。(現代においても「国債や地方債の発行額」で国や地方の借金を数字で知るだけで、実感としては理解しにくいが…)

しかし、幕末の尊王攘夷や倒幕に揺れ動く幕府や各藩の経済的背景を知っておくことは歴史の流れを理解する上で重要である。各藩がどれほど財政窮乏に陥っていたかを、岡山藩を例に示してみたい。
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岡山藩の天保二年(1831)の1月から9月までの収支決算は,銀475貫目の赤字であった。銀は金に換算すると一貫目で約17両であるから,約8075両となり,一両を15万円とすれば,約12億1125万円の赤字となる。この年の財政収支をまとめてみると,次のようになる。

天保二年(1831)
【収入】
定米銀                5456貫530匁6分
              大坂売付米3701貫384匁7分
              御国売付米 854貫033匁6分
              御米消費  611貫580匁
              年貢銀納  289貫532匁3分
万請代                   5貫739匁
地子銀                  72貫362匁2分
運上銀                   3貫152匁3分
御借銀                 760貫500匁 
鴻池御預銀利息             127貫327匁8分
その他                 150貫660匁5分
合計                 6576貫272匁4分
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【支出】
江戸万遣分              1943貫136匁
国元万遣分               871貫503匁
運賃・交通費              240貫407匁
合力銀(建設費)            174貫992匁
借銀元利払              3296貫991匁
雑費                  505貫269匁
合計                 7032貫298匁
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差引不足    456貫025匁6分

総収入のうち,五千四百五十六貫五百三十匁は,大坂や岡山での米売却分,年貢銀納入分,米消費分であり,全体の83%が年貢米の売却収入などである。また,御借上(借財)の七百六十貫五百匁を収入に計上しているが,これが全体の11.6%に達している。
支出では,借金の元利払が全支出のほぼ半分を占める約三千三百貫(約5万6000両)となっている。次いで多い出費が江戸屋敷の運営費である。このことは,他藩においても同様であった。

比較のため,2年前の文政十二年(1829)の「財政収支」をまとめておく。

文政十二年(1829)
【収入】
定米銀    4403貫773匁9厘
万請代       5貫376匁2厘
地子銀      77貫179匁6厘
運上銀      16貫021匁9厘
御借銀    1384貫124匁
鴻池御預銀利息 123貫417匁5厘
その他 151貫914匁9厘
合計     6161貫808匁
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【支出】
江戸万遣分  2062貫843匁
国元万遣分   812貫812匁
運賃・交通費  308貫746匁
合力銀(建設費)440貫203匁
借銀元利払  2726貫731匁
雑費      583貫596匁
合計     6934貫931匁
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差引不足    773貫123匁

両年の財政収支を見ても明らかなように,藩財政は刻々と窮乏化の途を辿っている。1831年度では「御米」611貫目余が定米銀の内に加算されるなどして,収入合計が約400貫ほど多くなっており,支出面ではほぼ同額であるから,差引不足が約300貫ほど少なくなっている。しかし,逆に「借銀」は360貫ほど増えている。
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岡山藩の借金の推移を簡単にまとめてみる。
宝永三年(1706)の総借銀高は8130貫目余で,その利子銀は680貫目余であり,1708年には逼迫しつつある財政に対処して緊縮改革方策を下命して,諸支出の節減をはかっている。
正徳三年(1713)には,家中物成の三歩減免(借上)および切米取から三分六厘の「上米」を命じ,その代わりに軍役の削減を命じている。この方策はどの藩でも行っていることであるが,江戸中期から幕末へと,深刻化する藩窮乏に対してその度合いを増している。

藩は京や大坂の商人だけでなく在中や町方からも頻繁に借銀を重ねている。享保十八年(1733)には町・在から銀600貫ずつの借り上げを命じており,1735年には如上の借銀を年賦返還とした。
次いで寛保二年(1742)にはさらに在中・町方各々から,月一歩の利を付けて10年賦で銀札1000貫目ずつの貸し出しを命じ,その後も明和二年(1765)に在方から銀500貫目,1767年800貫目,寛政十一(1799)には244貫目余(無利五年賦)と,間断なく借上げを続けている。

一方,家中に対しては3年ないし5~7年の期限をもって厳しい倹約令が発せられた。宝暦十二年(1762)には,年々新借銀が増え,諸役所の経費も支出超過となり,また不意の支出もあり,藩主も「朝夕御一菜充御減」じて,作事は一両年停止し参勤道中入用も極力削減することにしている。

諸役人への下行米の半減,諸役手人員の整理,諸支出の削減,家臣への借上や上米になどより家臣もまた困窮化することとなった。このため,文化・文政期(1804~1830)以後,家中武士で借財・貧困などのため,出奔・退去・「蒙咎(とがをこうむる)」の者が激増している。
また,生計が困難になった家臣たちは在郷(在宅)を望んで,城下の屋敷を指し上げて知行地(あるいは蔵入地)へ引っ越し,一定期間の簡略生活に入ることを希望するようになる。

寛政三年(1791)には番頭宮城舎人ほか7人の上士が許可されている。在郷の間は軍役や公役をほとんど勤めないことになっている。このことは,藩財政の逼迫に由来する至極の不勝手さによって役儀に支障をきたすほどであったために役儀を免除されての在郷生活であったと考えられる。もちろん,家臣の中には莫大な借銀により公務を勤め得ずして在宅を出願している者も相当数いる。
これらのことが,近世中期から後期にかけて,家臣団統制の弱体化と綱紀頽廃,武備の弛緩を招来する状態になったとも考えられる。

新財源としての専売政策を実施しても期待どおりの成果は得られなかった反面,凶作に対する救済費(1837年には米11500俵,銀220貫)や国役上納金(1836年の東海道川々普請上納金として44040両余),1853年以降の外国船に備えての海岸防備の天下普請・兵制改革・国事周旋・出兵など莫大な出費が続き,藩財政の窮乏化はますます深刻化していった。そのため,家臣への知行物成の免相を低減したり,倹約令の頻発,藩札の超過発行などの諸政策を重ねたり苦慮することとなる。
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御家中御倹約筋之儀,先年より度々御触有之候得共,兎角不行届,世上一統之風儀とハ乍申,武備之心懸薄く,華美物数奇勝ニ相成,(中略)借銀買懸り等,不義理も間ニハ有之哉ニ相,
(中略)銘々万端致省略,無益之失費無之,風儀宜相成候様可有之
(「法例集後編」)

これは,天保四年(1833)に出された倹約令(簡略令)であるが,家臣団の奢侈とそれに伴う武備の弛緩を訓戒するとともに簡略を厳命している。また,天保四年(1835)には過去7か年の倹約に続いて引き続き7か年の「倹約取縮」を命じ,あわせて支出削減の細目を指示し,翌年には在方倹約取締令を下命している。家臣(藩士)の給与を削減し,藩内だけで通用する藩札を発行して銀の内部留保に努めた。

天保から弘化ころ(1830~1847)になると,家老や番頭などの重臣でも家計が困難なための借財の増加により「逼塞」同様の簡略生活を願い出る者が多くなっている。例えば,仕置家老の土倉四郎兵衛は一万石の大身であったが,藩からの借銀が百貫を超えており,作廻方(勘定方)から隠居するか役儀を断って簡略生活に入るかと諷諫されている。
藩借銀も上方の商人からだけでなく国内の在郷商人からの借り入れを増やしている。弘化四年(1847)には,商品生産の進展をみていた児島郡や備中領分など領地内外からも銀四千貫(約68000両:藩内に流通していた通用銀は約七千貫であった)を借り上げている。

安政元年(1854)には,財政危機のため「藩札改正」(安政の札潰れ)を強行した。藩が準備金がなくなったので藩札と銀の引き替えを制限したため,藩札の信用は下落してインフレ状態となり,玄米一石は銀五百六十匁に暴騰した。銀千匁が銀一貫,約17両だから銀59匁が約1両,銀五百六十匁は約9.5両に匹敵する。
米相場は一石=1両なので,約9.5倍にはね上がったことになる。そこで,藩は新たに通達を出し「十匁の銀藩札を銀一匁にする」という十分の一の平価切り下げを断行した。これを「安政の札潰れ」という。
この結果,インフレは庶民の生活を直撃し,百姓も困窮した。藩内の大庄屋全員が連署して救済の嘆願をしたが,藩は米五万俵を貸与するしかできなかった。

翌年(1855)には,大坂の両替商鴻池からの借銀だけでも二万四千六百七十七貫(約42万両)の膨大な額に達しており,そのため藩は旧新25通の借用証文を1本に整理して,毎年米一万俵を七歩・三歩に分けて,それぞれを元入・利足に充てた。

当時の財政状況を知る史料として,同年三月に,藩主慶政が老中久世大和守広周(下総,関宿藩主)に財政難を訴えて,参勤の際の建物などの減少を願い出た書状がある。

藩の財政は連年不自由であるところへ,家督相続(天保十三年:1842)以後に種々の出費が続いて一層逼迫するようになり,家臣たちへの扶助にも差し支えるようになった。(自分は奥平家から入って襲封したものであり)養家のことでもあるから,是非とも財政を立て直さねばならぬと思って,節倹を督励してきたが行き届きかねている。去る戌年(嘉永三)より五年間,格外の倹約を実行したところ,その期間中に領内の不作が続き,剰え毎年のように未曾有の水旱損があり,そのうえ一昨年(嘉永六)は房総備場(安房の北条・上総の竹岡)の警備の命をうけ,かつ去年十一月には大地震のため破損箇所が夥しく,何んとも手の施し様もなく心痛当惑の次第である。そしてなお又,当年より十か年間きびしく取り締め,公務以外は格別に倹約するように命じている。従来とても厳検を励行するように努めたが,これという巧験も見れないので,やむなく上記の年限中の参勤の節,役員様方への進覧物ならびに年中定式の進覧物などまで減らして贈ることにし,専ら備場の御用に出精いたし度く

このように,他藩と同様に岡山藩においても,藩財政は窮乏化の一途を辿りながら,その解決策としては徹底倹約と人件費の削減という緊縮政策と,特産品の専売制による増益を目指したものでしかなく,削減することのできない幕閣への献上品や儀礼費,参勤交代・江戸屋敷の維持生活費などの莫大な経費,さらに自然災害や凶作,天下普請などにより不足する出費については商人からの借財に頼るしかなかった。
その結果,毎年の元利払いが増加し,その補填にまた借財を重ねる悪循環に陥っていったのである。


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。