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光田健輔論(37) 牢獄か楽園か(1)

日本近代思想大系22『差別の諸相』付録[月報15]の中に、成田龍一「『小島の春』のまなざし」がある。今回、ある論文の引用文献に挙げられていて気づき、一読した。『小島の春』を通して小川正子の患者観が考察されていて、興味深かった。

小川により「病気の主人公」と認定された人物は、どのような態度をとろうと憐れみの対象でしかなく、その妻が「病者の妻」と記されるように、彼の営む人間関係も病いによってのみ、関連づけられる。ハンセン病者は、「隠れ住むより術の無い人達」とされ、身体を損い、精神的にも傷ついたものとして固定化されてしまう。

成田龍一「『小島の春』のまなざし」

成田氏は「固定化」の証左として、「小川が病者を自動車で運ぼうとするときのエピソード」を「印象的」として例示する。

だが、小川は、ようやく病者を自動車に乗せるとき、病者が「決して車に触らない様に、迷惑はかけない様に」すると運転手に約束し、ためらう病者の顔中に繃帯をまき、「粗末な」手袋をさせた。なぜ、「偽せ繃帯」が必要なのであろうか。なぜ“並”の手袋ではなく、「粗末な」手袋だったのだろうか。
病者の友を自負する小川が、かかる行為をとり、それを叙述することによって、ハンセン病者の身体は隠されるべきものであり、病者が触れることにより病原菌が伝播されるということが、いたずらに強調される。…悩み、迷うことにより小川自身は救われようが、病者は実のところ小川にもみすてられ、ひとつのイメージのなかに封じこめられ、そのイメージが増幅され、拡大され、伝達されていく。そして、その結果、ハンセン病は単なる病いではなく、“特別”な病いとして固定化されてしまうのである。

成田龍一「『小島の春』のまなざし」

ベストセラーとして多くの国民に読まれた『小島の春』が果たした役割、その効果について光田健輔は「数百数千回の講習会を催すよりも有効であろう」と述べているが、それは光田にとって絶対隔離政策を遂行する上で都合のよい「イメージ」を国民に与えることができたということであろう。事実、続けて光田は「国民は癩を遺伝の為であると言ふ迷信から醒めて、早く患者を療養所に送り、治療しつゝ生涯を終らして他への伝染を防ぎたい」と述べている。

<時代的正当性>というのであれば、現代とのちがいである情報伝達手段の脆弱であろう。情報を得る手段が新聞あるいは雑誌、書籍、講演会(演説会)しかない時代(ラジオ放送は1925年、テレビ放送は1953年)において、その情報の信憑性を確かめる手段は少ない。それゆえに「専門家」「国家」等々の「権威ある者」からの発言は信じられやすい。さらに地方(田舎)に行くほどに情報は「口伝え」「噂」によって拡散されていた。中には誇張・曲解・歪曲されたものも多かっただろう。

そのような時代において『小島の春』は、権威ある長島愛生園長光田健輔や厚生省予防局長高野六郎、貴族院議員下村宏らの「序文」によって権威付けられ、ハンセン病の専門医の書いた内容として「真実」であると読者に思い込ませたことにより、成田氏の指摘するように、ハンセン病のイメージは「固定化」されて国民に浸透していった。

私が何より恐ろしいと感じたことは、小川正子が繰り返し述べることで、長島愛生園の「楽土」としてのイメージを作り上げたことである。前回に書いたように、木村巧氏が指摘した『小島の春』の章構成を変更してまで「長島事件」を隠蔽するなど、ハンセン病療養所のイメージを患者にとって「楽土」であると国民に植えつけたことにより、国民は実態を知ることなく「無らい県運動」に協力していった。患者は「楽土」である療養所で暮らすことが、患者にとっても住民にとっても国家にとっても最善の道と信じ込んでしまった。

歴史の中で一体どれほどの「情報操作」によって悲劇が繰り返されてきたことだろうか。それは今も、AIなどの最先端技術で生み出される「フェイク」などのように、より進化した巧妙・狡猾な情報操作が行われている。


私が疑問に思うのは、百歩譲って、光田健輔がハンセン病患者を本気で救おうと思っていたとして、定員超過を覚悟して受け容れたとして、なぜ、それなりに深く関わり、相互の信頼もあり、同一歩調で絶対隔離政策を進めていた厚労省など政府に、療養所の運営予算の増額を求めなかったのか。「十坪住宅」を増設する寄付金を運営費に回さなかったのか。

「黒川温泉ホテル宿泊拒否事件」に対する自治会への誹謗中傷の多くが、何不自由なく国に生活と治療をみてもらっていることを理由にした非難が多かった。彼らは戦後に入園者たちが生活環境の整備を求めて闘った成果である「現在」の姿しか知らないからである。戦前・戦中の療養所の苛酷な実態を彼らは知りもしない。

この手紙の前の年(1939年)、正月の献立をみた小川は「たべるといふことが最後のなぐさめである患者さん達がこれからどんなに不自由に耐へて行けるであろうかとおもはれてなりません。療養所の経営がどんなに困難になることでせう」と光田に伝え、泥沼化する総力戦が入所者に強いるであろう「不自由」に不安を覚えないわけにはいかなかったのである。

松岡弘之「小川正子の晩景-近代日本のハンセン病隔離政策と臨床医-」

事実、1942年から45年にかけての長島愛生園の年間平均在園患者数は1805名中、死亡者数は889名に上った。44年は227名(死亡率14%)、45年は332名(死亡率22%)であり、国立療養所の各園では火葬用の薪や棺桶が欠乏して困ったという。その死因の主なものは「栄養失調」である。多摩全生園でも同時期の死亡者数は5年連続で100人を超えている。

栄養不足に戦時下特有の苛烈な労働(防空壕掘り、炭焼き、荒地の開墾など)も加わり、患者の病勢はますます悪化させた。さらに医者や看護師、医薬品の不足が重度の不自由者を増加させ、看護付添の需要も増大した。こうした実状に耐えられず、軽症者は次々と逃亡していった。施設側は作業人員を確保するため、国の徴用令にならって園内でも徴用制度を採用した。その結果、いくつかの園で逃亡者と死亡者の続出により、患者定員を割り込むようになっていった。

ペンネームは「田中哲吉」となっているが、吉川(四郎)が書いたとみられる、昭和七年当時の愛生園をレポートした「牢獄か楽園か、国立癩療養所愛生園とはどんな所か」がある。…書かれたまま押収され日の目を見なかったと思われるものであるが、その内容は無産運動の中をくぐってきた人間の視線が息づいたものである。その中の主要な部分を抜粋しよう。

「とにかくここの職員は愛生園の内情が外部にもれる事を大変に恐れる。それで手紙等は一々御丁寧に開封して見るし、面会人が来ても立会人付きで面会させる程の取締りぶりだ。
飯は米が三分に麦が七分というとてもひどいものだし、副食物は毎日々々イモに菜っ葉に、顔のうつるような味噌汁に玉葱かカボチャに決まっている。魚類なんか食べたくても食べられない。もっとも月に二、三回は腐った様な鰯を二尾位づつくれる。だから当地の患者は社会から島に捨てにくる犬や猫を発見するとナグリ殺して食って仕舞う有様だ。
労働は強制的にやらせられる。朝九時から午後四時まで七時間労働だ。その労働もなまやさしい事ではない。弱い患者の身で山を崩す土工や、左官、大工、精米、百姓等々健康者でさえもエライ仕事を無理矢理にやらされる。そして賃金は甲は10銭、乙は8銭、丙は6銭だ。一体どこの世界に一日働いて10銭や8銭の賃金をもらって居る所がある。
奴等は俺達をこき使って置き乍ら、病気が重くなったり、負傷して働けなくなると、やれ国家の寄生虫だの、国賊だのと吐かして全くひどい待遇をする。ある者が負傷して外科材料をもらいに行くと、贅沢な事を言うな、橋の下(その人は浮浪生活をしていた)に外科材料はないだろう。乞食していた時に負傷した場合はどうして居た。お前なんかホータイを使うのは勿体ない。ボロギレで沢山だと、実に言語道断な事を吐かす。重態の病人のところへも医者はなかなか来てくれないのに、豚が病気を起しでもすると泣きそうな顔をして聴診器を持って飛んで行く。人間の替りはいくらでも外から来るが、豚は金を出さなければ買へないなんて人を馬鹿にした言草じゃないか。
読書にしても宗教やキングその他ありふれた雑誌の他は一切読まさない。階級的な本を読ませるとストライキを起こされると困ると吐かして、いくら外から送って来ても本人に渡さないで没収する。
かくの如く其の待遇は囚人と何等異る所はない。だからこそこの生活に耐えかねて逃走を企てる者、自殺をする者が次から次に出てくる。果たしてこれが楽園であるならば、冬の寒い真最中に海を泳いで、しかも捕って帰ればブタ箱入りとテロの加えられることを承知で逃走していく行く者は一人も居ない。」
吉川は入園して六ヶ月後、そして文書を開封されて一カ月後の昭和七年五月五日、愛生園を追放(退園処分)された。その後の彼の消息は不明のままである。

長島愛生園入園者自治会編『隔絶の里程』

開園の翌年(1932年)とはいっても、当時の患者のおかれた実状が惨憺たるものであったことは事実であろう。年々、それなりの改善や生活環境も整えられていったことは園史に詳しいが、施設管理側の職員や医師が患者に対してどのように接していたか、患者のことをどのように思っていたか、必ずしも光田が標榜した「大家族主義」ではなかったと推察できる証言である。
事実、入所者から個人的に聞いた話の数々も壮絶なものだった。温和で朴訥な方が思い出すように、時に感情を高ぶらせて語る話ほど信憑性の高い証言はない。彼らの「涙」には積年の思いが込められている。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。