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「生類憐みの令」と作州津山藩(2)

昔、津山藩についてネットで検索していて,中野書店『古本倶楽部』「18.お大名の借金」を見つけた。そこには,『大名貸し証文 元禄十二年 森長俊裏判 1通 210,000円』(残念ながら写真が小さく判読できない)があり,この証文の経緯について書かれていた。抜粋して引用する。

元禄十二年,播磨三日月藩主・森長俊の裏判のある借用証書。銀百七十貫(およそ3400両)あまりを借り,年貢米を売却して支払うという内容が,大紙三枚に長々と書かれています。
いわゆる大名貸しの証文ですが,この時の借財には特別の意味があったようです。この少し以前,元禄十年に津山藩主・森家の四代,森長成が27歳で逝去してしまいます。彼の死の原因は,時の将軍・犬公方こと,かの徳川綱吉に野良犬を収容する「御犬屋敷」の造営を命じられ,財政の逼迫と幕府からの重圧の板ばさみになり,その苦労が重なったためだと云われています。
津山藩は急遽,長成の叔父,関衆利(せきあつとし)を継嗣と定め幕府へ許可を求めたのですが,将軍拝謁を急ぐ途中の桑名で,衆利は幕政を公然と批判。そのために跡目相続が許されず,ついに18万石の津山藩は改易となってしまいました。そして,このままだと津山藩の領土内にある,当時この森長俊が藩主であった津山新田藩も,自動的に没収になってしまいます。ために長俊は一時,幕府に抗戦することも画策したようです。信長以来の名門,森家には分家も含め一族が多く,家臣とその家族は数千名に及び,もし改易,そして戦となれば天下騒乱です。
結局,長俊は縁戚である池田家の力添えしてもらい,さらに前田・浅野・細川らの大藩に働きかけて,幕府に温情を求める方策をとりました。その甲斐あって,長俊には,新たに播磨三日月に新田藩と同じ石高の1万5千石が与えられ,以後三日月藩主森家として,幕末まで存続することになりました。
新しい所領を得た直後の長俊にとって,元禄十二年の江戸参府は,こうした改易騒動の後始末の意味もあったのでしょう。おそらく各所に礼を尽くさねばならないであろう費用は,多額の借金をしてでも必要であったことが推測されるのです。これはおそらくそのための借金証文なのでしょう。

大名にとって財政面でもっとも重い負担は「参勤交代」の道中費用,江戸と領国との二重生活,「天下普請(お手伝い普請)」であった。その一例として,同じ岡山県の津山藩が命じられた「武蔵児玉郡中野村お犬小屋御普請」について調べていて,思いもよらぬ奇しき因縁を知った。

それを題材に描かれているコミック『新・藩翰譜 森一族』(小学館)は,「史実をもとにしたフィクション」と断っているように脚色も多いが,大筋の経緯を知るにはわかりやすかった。

老中柳沢吉保の奸計により,元禄八年(1695)十月十四日,津山藩は「武蔵児玉郡中野村お犬小屋御普請」を下命された。総工費約四万三千両(1両20万円で,約86億円)である。津山藩は十八万六千五百石であるから,1石1両として年間収益約30~38億円と考えても,年収の3倍近い額の出費である。約二ヶ月後,延べ人数約百万人の人夫,約一万頭の荷馬,二万七千輌の荷車や諸道具などを総動員して連日の突貫工事により,元禄八年十二月四日にお犬小屋は完成した。そして,津山藩に残ったのは三万両を超える莫大な借財であった。

森長継が隠居し,長武,長成と継ぐが,いずれも早く亡くなり,お犬小屋普請の心労と,その後の財政立て直しに苦しんだことが災いし長成が急逝すると,関衆利(あつとし)を末期養子として願い出て認められた。しかし,将軍拝謁のため新藩主衆利は津山を出府したが,伊勢・桑名にて乱心したため,津山藩森家は跡目相続不能となり,ついに断絶となる。
しかし四代前の藩主であった隠居森長継が87歳で存命であった。そのため,森家の名跡を継ぐことを許されて,備中西江原に2万石で再出仕を命じられ,二十三男の森長直はその後を継いだ。そのとき,先に引用した「大名貸し証文」の森長俊は播州三日月に一万五千石を与えられたのである。

津山藩改易から八年後,その間に起こった「浅野内匠頭刃傷による赤穂藩改易」「赤穂浪士討ち入り」を経て,宝永三年(1706),森和泉守長直は国替えとなり,備中西江原藩から二万石をもって播州赤穂に入封した。

津山藩森家の存亡史や赤穂藩と似たような境遇など興味は尽きないが,今は幕府によって下命された「天下普請」によって藩財政が逼迫していった実態に驚くばかりである。

「生類憐みの令」の見直しが研究されているが,津山藩森家に下命された「武蔵児玉郡中野村お犬小屋御普請」の理不尽さとバカバカしさに呆れる。そして,何よりも莫大な費用に驚嘆するとともに,各大名家が疲弊していった要因を実感する。
このような実態が記述されず,単に幕府や各藩の財政難とだけ説明してる教科書に,あらためて不十分さを感じる。

歴史事象の背景には様々な要因がある。直接的・間接的だけでなく遠因もまた複雑に絡み合っている。江戸時代という270年間の時間と空間において起こった歴史世界,単純な歴史観で全体像など把握できるものではない。
江戸と各藩領とでは,支配統制の組織においても人々の生活においても,共通性もあれば独自性もある。歴史の全体像と個別像は相互に関連し合うもので,どちらが基準となるものでもない。それを一面的な解釈や表面的な現象だけで解釈することで史実とかけ離れた認識を生み出してしまうのだ。


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。