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岡山の部落関係史:岡山藩5

ここでは、岡山の近世における重要な事件、被差別部落民(「穢多」身分の人々)にとっての解放闘争前史ともいえる「改宗反対闘争」についてまとめておく。


<常福寺の歴史>
国守の常福寺は元は長福寺として718(養老2)年に創建され、はじめは大覚院と称していたと伝えられている。16世紀末、祥覚が宇喜多(浮田)氏に願い出て堂塔を建立し、宇喜多氏の祈祷所となった。やがて、豊臣秀吉の妾腹に長福丸が出生したが夭逝した。このとき、祥覚が冥福を祈った。秀吉は直黒印寺領を与え、長福丸の追福菩提の祈願所とした。ここで長福寺と改称した。
関ヶ原の戦い後、小早川秀秋が領主となり寺領返還を命じたが、祥覚は秀吉より賜った寺領だから返還するのは筋が通らないとし「寺領返還の後は豊公恩澤並に拙寺本尊の威徳を報護し、且亦僧の威厳保護の為拙寺下管道は貴候初め諸国城主と雖も立鎗動行を禁ずるが異議なき哉」と主張し、これを認めさせている。
池田光政も領主となり寺領返還を示したが、祥覚は拒否した。寺威と祥覚の徳望は他国にも聞こえ、1608(慶長8)年には大日如来を安置した。光政は領地繁栄を図り、熊野家に親交のある法院尊滝院を聘し、権現祭を執行し、長福寺に止宿い、丸に三葵の定紋の使用を認めた。また、諸祭式参列相談役とし自由出仕を認めている。
1716(享保8)年、将軍徳川吉宗の長男家重の幼名が長福丸であったことからこれを憚り、長福寺は常福寺と改称した。
岡山藩は藩内の「かわた」を本村の檀那寺から切り離し、常福寺(真言宗)のみを檀那寺とするように統制した。1737(元文2)年の「備陽国誌」には次のような記述がある。

国守村、真言宗、本寺備中国上房郡古瀬村大宝寺。この寺は国中屠者の寺にして、寺僧も彼か中より出るによりて、里民この寺へよらず


◯1771(明和 8)
 久米北条郡大久保村・青長山大法寺の海順が幕府に「箱訴」

◯1782(天明 2)
 幕府、備前・備中・美作の穢多の寺院(真言宗)を一向宗に改宗すると判決

幕府は身分統制の一環として、備前・備中・美作の「かわた」(穢多)寺院(9寺2坊1道場)を真言宗から一向宗(浄土真宗)に改宗させる宗教政策をとった。


全国の被差別部落の宗旨は、約85%が浄土真宗だといわれている。ところが岡山県の備前地域では、ほとんどが真言宗である。それは、被差別部落の人々による改宗反対闘争の成果である。

岡山における被差別部落の「旦那寺」は、慶長19年頃、宗門改めをすることになって檀家制度とともに作られた。備中・美作では、その際、部落の方で僧侶を呼んできて寺をつくった。備前の場合は、先の中納言(宇喜多秀家)のとき、国守に刑番を置き、同時に寺も誘致された。元禄元年(1688年)以前は、高野山寿福院を本山とし、備中上房郡の大宝寺を中本山とした、備前の常福寺、備中の増福寺、美作の大法寺という関係があったが、本山が退転したため、無本寺(本山ー末寺の系列のない単独の寺)となった。

改宗問題は、大法寺の住職であった「海順」の訴状が契機であった。彼は真面目な人で自分は立派な僧になりたいが、本山が無いため修業ができない、そこで本山を求める。まず、高野山の金剛峰寺に本山を頼むが、皮田の寺で真言宗の末寺はないと断られる。しかたなく、本山を求めるきっかけとなった本願寺の塔頭・金福寺の僧、玉琳の「もし浄土真宗でよければ金福寺の末寺になりなさい」という言葉に従おうと考え、檀家に話した。
しかし、15ヵ村の内11ヵ村は賛成するが、有力な檀家が反対する。そして、海順が所用で大阪に行っている間に、彼を寺から追放してしまう。海順は困り、久世の代官所や大阪町奉行に訴えるが取り上げてもらえず、ついに大阪で目安箱に訴状を投書する。
老中田沼意次のもとで審議され、12年後の天明2年(1782年)、大阪代官の万年七郎右衛門によって「真言宗に皮田寺は無之の由に候上は、寺院並旦方の皮多共一向宗に可相成」と判決が下された。この結果、美作の大法寺や宝福寺は仕方なく浄土真宗に改宗する。備中の大宝寺ら4ヵ寺も大阪の徳浄寺の末寺となる。

備前には部落寺院は常福寺しかなく、その頃の住職であった智信(智心)は檀家の強固な反対のため退院してしまう。寺は無住となったため、寺株は真言宗のまま続いた。檀家は他の真言宗寺院を仮檀那とした。

なぜこれほどに強く反対したか。それは、被差別部落の人々が、この改宗を単なる宗旨の問題ではなく、自分たちを平人と「分け隔て」る身分隔離を目的とした差別強化の政策であると捉えたからである。
この檀家の反対の強さから、岡山藩は強制的に改宗を命じず、彼らを藩内の真言宗の仮旦那にした。押しつけられた真言宗の寺院は、彼らに対して葬式があっても戒名だけつけて葬式に行かない(送戒名)、法事があっても行かないという差別的な扱いを行った。それでも彼らは常福寺の再興を要求し続けた。

岡山藩寺社奉行湯浅新兵衛は「常福寺は先規の通り真言宗にて相立居申候得ば以前の通り真言宗の住職申しつけ候義相当」と延べ、仮檀那をやめ早く住職を決めなければ「切支丹改方不取〆りにも相成候てはいかが存じ奉り候」と、倉敷代官に掛け合っている。

寛政2年(1796年)、新しく寺社奉行に就任した湯浅新兵衛(湯浅常山の子)により、英田郡上山村明王院の弟子「周温」を住職として、真言宗の寺院として常福寺は再興されたのである。


この史実において着目すべきは、なぜこれほどまでに真宗への改宗を徹底的に拒否したかである。しかも、仮旦那寺である真言宗寺院の差別的な扱いにも負けることなく、毎年のように常福寺再興の嘆願書を出し、度々村役人を通して願い出てもいる。智心や湯浅新兵衛を動かしたのは多くの「かわた(穢多)」の闘いであった。

柴田一氏は、「御百姓」意識に支えられ、彼らが差別を見抜く力を持っていたからである、と説明するが、むしろ「御百姓」意識を実質的に獲得しようと目指していた彼らにとって、自分たちだけが「改宗」を強制されたことが許せなかったと見るべきである。
すなわち、「改宗」を容認することは、彼らと百姓との「分け隔て」を認めることであり、身分の差異の明確化である。彼らは、これを彼らの進もうとする方向に逆行すると見抜いたのである。つまり、「御百姓」意識を媒介にして、差別の本質を見抜き、黙認することが自分たちの生活や子孫の未来を苦しめることを知っていたのである。

「渋染一揆」において指導的役割を果たした城下5ヵ村も常福寺の檀家であり、最初の惣寄合が開かれ、以後も度々寄合がもたれた場所が、この常福寺であった。この「改宗」反対闘争は、教訓として「渋染一揆」に生かされているのである。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。