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光田健輔論(36) 善意と悪意(6)

『ハンセン病市民学会年報 2005』に、泉潤氏による『ハンセン病報道は真実を伝え得たか』(末利光)の書評「活きつづける光田イズム」が掲載されている。
私も末氏の同書を友人から教えてもらい一読したが、あまりの独断的かつ錯誤と曲解に終始した内容に辟易して途中で投げ出して、処分してしまった。今となってはほとんど記憶にない。
現在、光田健輔論と題して、光田を中心に日本のハンセン病史を検証しており、彼の周辺の人物にも筆を伸ばしている関係で、市民学会の年報も再読している中で、泉氏の書評を読み、小川正子を論じる上で、本意ではないが、末氏の同書も再読するため入手した。

泉氏の書評を読む中で気になった末氏の論理、小川正子や光田健輔の「擁護論」は、20数年を経ても未だに「活きつづけ」、新たな研究者による論文として登場している。本論考においても数人の論文を検証したが、小川や光田の人間性や「献身」を高く評価することで「絶対隔離政策」を肯定する論旨であるか、プロミンも発明されていない「不治の病」であったのだから仕方がないとする「時代的正当性」の論旨であるかである。

私が小川に対して疑問をもつのは、彼女ほどに聡明で誠実で純真な、一途に患者に寄り添おうとする献身の者が、なぜ患者の「実態」に目を瞑り、光田の命に従い続けたのかという点である。光田や国の「絶対隔離政策」の矛盾に気づく立場にいたはずである。

末氏は小川に対する批判について「(特効薬もなかった時代に生きた小川に)向かって今の医学水準から“なぜこうできなかったのか。正子さんにしては残念だった”と言えるだろうか」と反論している。確かに過去の人物の行為について、その人物が生きた時代の枠組みを考慮せずに安易に断罪すべきではない。だが、小川について私は、彼女が生前、彼女自身が実体験した事柄を通じて、絶対隔離政策という国家の矛盾に気づく機会は十分にあったと考えている。

泉潤「活きつづける光田イズム」

泉氏は、その機会の一つを「長島事件」に求める。重要な部分なので一部を省略して引用しておく。

光田が「一食一座を譲る」をスローガンに、定員超過による生活環境の劣化を承知の上で、積極的に患者収容を進めてきたのが実態である。そして、その患者収容の一翼を担ったのが小川であり、その収容行を手記として発表したのが『小島の春』だ。
『小島の春』の中で小川は「昭和10年の秋になって愛生園の収容力はまったく行き詰まっていた。収容又収容、ついに定員超過250人に及んだ」と記述しており、彼女自身、愛生園の実態は自覚している。だが、光田の「長島でできるだけ収容してやろうではないか」との指示で、収容行に向かっている。…(中略)

この奨めが、彼女の善意によるものであったとしても、その善意がもたらした無残な結果を、「長島事件」で彼女は目の当たりにしたことになる。彼女が「愛の楽園」として宣伝してきた園が怒号に覆われた事件の際、小川は一人、夜の海に向かって泣いていたという。

泉潤「活きつづける光田イズム」

定員超過が生み出した「長島事件」の背景について、『ハンセン病とキリスト教』(荒井英子)より、少し長くなるが引用する。

…愛生園には、「無癩県運動」のもと続々と患者が送り込まれ、事件の前年(1935年)には収容定員890名のところ、実際には1163名が収容されており実に273名の定員超過だった。しかし国の予算は定員枠の890名分しか出ない。このことは何を意味するか。すなわち、定員超過分の患者の費用は、すべて在園患者の生活費でまかなわれるということである。これは、元来最低限の生活を余儀なくされていた患者にとっては死活問題であった。
また当時、施設運営に必要な作業、…すべての園内労働に患者は安い賃金で駆り出されていたが、その園内作業賃も、政府は予算計上を認めず、実質患者の食料費、被服費、営繕費などを削って捻出された。こうして、定員超過は作業賃の増加をも意味し、患者は生活水準の低下と作業賃捻出のための二重苦にあえぐことになる。さらに、患者生活の窮乏は居室にも及び、定員4~5名の十二畳半の部屋に、8~10名が押し込まれ、六畳の夫婦舎に二組同居という事態さえ生じていた。長島事件当時は、定員超過した326名分の生活費がなかったという。…大家族主義を標榜し、楽土建設を目指した光田のモットー、「同病相愛」「相互扶助」も、こうした状況では「同病相死」となりかねない。患者側が園当局に対して、新患者の収容停止、現在員に相当する予算の支出を求めたのは当然のことであろう。
このような状況下、国の予算の足りないところを民間の寄付によって補うべく進められたのが十坪住宅運動である。しかし、寄付によって家屋だけは出来ても、政府は超過人数に見合う経常費をつけなかったので、十坪住宅に入った患者にとってそこはまさに生き地獄であった。最終的に、この運動によって愛生園に建てられた患者住宅は、恵泉寮も含め149棟にのぼり、入所患者が二千人を超えて最高を記録した43年には、国庫の病舎に入っていたのは七百人で全体の三分の一にすぎなかったという。そうまでして、「祖国浄化」は誰のために貫徹されなければならないのか。十坪住宅運動、それはハンセン病患者を救うためのものではなく、健康な一般国民を救うための運動であったといっても過言ではあるまい。

荒井英子『ハンセン病とキリスト教』

当然、このような園の実態や患者の生活苦を小川は知らないはずはない。自らが「楽天地」と宣伝して愛生園に送り込んだ患者がこのように苦しんでいることを彼女はどう思っていたのだろうか。それでも光田の命に従って、「楽天地」と嘘をついて患者を収容して回った彼女を「国策の推進者」と呼んではいけないのか。

可哀想だけれども、済まないけれども、もっともっと大きな目的の為に、もっともっと正しく広い人類全体の幸福のために私は病気の父親を妻から。子から、その愛着かえあ奪って連れていかねばならなかった。
癩は伝染るのだから、これだけの病人がいてこのままに放置しておけば何時かはもっと大変になること、療院へやる事は血肉の情としては辛かろうが、それが自分の病気の為であり、周囲の人の為であり、病苦の徳義でもある。

小川正子『小島の春』

私はここでも<目的のために、手段を正当化する>人間を見る。「祖国浄化」「民族浄化」の目的のために、ハンセン病患者を「強制収容」するという手段を正当化する小川は「国策の推進者」以外の何者でもない。

熊本市の本妙寺集落を強制収容した「本妙寺事件」に計画の段階から深く関わった光田健輔は愛生園の職員も派遣している。この職員に宛てた手紙の中で、小川は収容患者を敵役に模して「本妙寺討ち入り」と表現し、小川の養生していた別荘に見舞いに来た元同僚と一緒にハガキを送り「本妙寺のお掃除にお出かけの由、御苦労様」と患者をゴミ扱いしている。
荒井氏も書いているが、本妙寺集落の幹部たちは、栗生楽泉園に設置された重監房に送られているが、重監房が22名もの獄死者を出すほどの苛酷な牢獄であることを知っていたのだろうか。

泉氏が末氏に取材した際に一番聞きたかったという、結核のため愛生園を去った小川がハンセン病患者に対して説いた「病者の徳義」の矛盾を感じていたかどうかについて、実は私も同様のことを思っていた。末氏は小川の日記には「そうした記述はなかった」と返答したというが、非公開にしているため真偽の程は定かではない。


松岡弘之氏の論文『小川正子の晩景-近代日本のハンセン病隔離政策と臨床医-』は、泉氏の疑問に些かは答えを導いてくれるのではないかと思う。松岡氏は「本稿では作品ではなく、小川自身がその作品と行く末どのように捉えていたかという視点から、改めて小川正子という女医の果たした歴史的役割について検討を試みるものである」と述べ、史料として光田健輔に宛てた書簡を用いて、愛生園を離れた後の彼女について考察している。

やむなく引き受けた『新女苑』の連載でも、自身の来歴や思い出深い患者を書き連ねながら、それぞれに対して懸命に尽くしてきたことを振り返っている。例えば、1936年8月に愛生園入所者が光田らの解任と自治を要求した長島事件が勃発したことで、小川は「私の誠実のたりないことがどんなにかなげかれ、心貧しく無力なことが、再びたてないほど私のすべてを打ちくじきました」と深い挫折を味わう。そして、「騒ぎのとき、もっとも狂暴であった患者の一人」がその後深い信仰を獲得し、末期の際で「すべての人に静かに詫び、親しい友人…の手を握ってしずかにさよならと言って」息を引き取ったことを以下のように振り返る。

摺古木のような手と手は、握っているのではなく、ふれあっているだけのもので、他からみるとそれは汚いだけのものでしたでしょう。しかし、私はそのときほど、人の心の美しいことをみたことはありませんでした。その兇暴であった人も、結局はいい人であったのだ、と思っていると、光田先生は、涙をぬぐいながらしずかにおっしゃるのでした。「すべての人は善良です。乱暴であった者ほどこんなに早く、こんなにも判ってくれるのですよ」私はききながら不覚にも涙をおとしてしまいました。しかし、それはけっして悲しいことではないのです。私たちは、やはりここにいて、あの人たちと共に生きていけるのだと言うことを信じふるいたつことのできた喜びの涙だったのです。

そして、小川は「どんなことをされやうと、ぢっとあの人たちの心を偲んで、私たちは許すのだ。そして、もっとゝ身と心のすべてをかたむけて、患者の方のよりよき友にならねばならん」と誓ったことを披露する。こうしたエピソードはたしかに小川の主観としては偽りのないことであったといえようが、読む者に光田や小川の患者への献身ぶりを鮮明に印象づけ、ともすれば患者を埒外においやるような「癩の広告」となっていることは否定しがたい。…小川が『新女苑』で展開した叙述は、患者と医師の情緒的な結び付きのなかで園を美化するものであって、読む者にとっては、長島事件という入所者決起の根底に単なる物質的欠乏にとどまらない療養所運営への入所者の関わりという重要な論点が存在したことなど思いもよらぬこととなろう。

なお、長島事件について、小川は1940年8月9日付の光田健輔宛の書簡で、「もう五年目です、患者さん達ばかりがわるかったのではないのですから、何卒患者さん達のことをかんべんして下さいます様に、世の中のこと、すぎてしまへば何もかもゆめの様です」とも記している。『新女苑』の記事が光田と入所者との和解を感動的に叙述しながらも、実際のところ光田自身は患者への不信を拭い去ろうとはしていなかったのである。小川の控えめな忠告は、事件当時、小川を含む職員一同が光田解任要求を拒否し首謀者の徹底的な取締を主張していたことからすれば、当時の療養所運営の非を認めた点において、その後の小川なりの内省を示唆するものとなっている。

松岡弘之『小川正子の晩景-近代日本のハンセン病隔離政策と臨床医-』

幾分長く引用したが、愛生園を離れても復職できることを願いつつ患者のことを思う小川の優しさと真摯な献身は、まさしく「善意」であろう。と同時に、小川が光田への信頼と園の運営あるいは絶対隔離政策の間で揺れている心情も垣間見える。

松岡氏は、朝日新聞の記者である杉村武が小川を取材するに際して「『小島の春』を丹念に読めば、一般の読者が感激で読み流してしまうような端々に、小川が愛生園や救癩事業に不満を持っていることが分かる」と指摘したことを光田に書簡で知らせことから、次のように推察する。

杉村が指摘した実際のハンセン病政策を小川が批判したかのようにとられる危険性を、光田にだけはあらかじめ釈明しておこうとするものであった。責任を負うと強がりながらも、小川にとって虚像をはぎ取られることもまた、恐るべきものとなりつつあったのである。

松岡弘之『小川正子の晩景-近代日本のハンセン病隔離政策と臨床医-』

私は直接に小川の書簡を目にしていないので何とも言えないが、松岡氏の考察を読むかぎり、『小島の春』が出版され映画化され、関係者の評価によって「一人歩き」し始め、自らのイメージが勝手に作り上げられていくことに不安と不満を抱いていく様子が感じられる。
その反面で、光田宛の書簡で「世の中といふものは妙なもの、私がしゃべりくたびれたら本が出て、本がしゃべりくたびれたら映画になってくれて、まづまづこれで事業としての癩宣伝の効果といひますか、役に立つことヽおもひます。ただ原作者が大変立派な人間だといふ点は大変困るのです」と述べているように、光田の望む「癩事業の宣伝」を果たしていることに安堵している。


私の目的は小川正子を論評することではないので、これ以上の考察はしないが、小川の晩年に際しての光田との関係について、松岡氏の分析を参考に考えてみたい。

松岡氏は、映画を鑑賞した愛生園の患者の感想をもとに、それを読んだであろう小川の心境を次のように推察している。

(愛生園入所者の)柴や斎藤の批判は、「続『小島の春』」で(療養所において自らの命を絶たざるを得なかった患者の)松原のことを描いた小川の気持ちを端的に代弁するものであって、むしろ小川を喜ばせたことであろう。とはいえ、それは、映画に「癩宣伝の効果」を認め、長島の人々に「一日もはやくみせてもらひ度い」などとみつだへのリップサービスを繰り返す小川の急所を突くものでもあった。すなわち、映画は、小川がともにありたいと願った患者と、光田への建前を使い分ける彼女との間に、深刻な亀裂が生じていることを原作者に告げることとなったのである。

松岡弘之『小川正子の晩景-近代日本のハンセン病隔離政策と臨床医-』

松岡氏は、晩景の小川正子について、次のように推論して「むすび」としている。

家庭内感染を防ぎながら患者を治療し、やがて看取るという小川の初心と、疾病を根絶するという国家のための隔離は小川にとってある時期まで折り合いがついていたことも事実である。目の前で多くの患者を救うことができる臨床医としての喜びと誇りと責任感は、『小島の春』として世に届けられ、反響を呼ぶ。だが、小川の勤める愛生園においてさえ、入所者は自治を求めて職員と激突していた。…小川は、患者との深い精神的なつながりを尊重することを起点としたものの、自治を含む療養所の制度を具体的に構想するものではなく、その行き着く先を小川は施設管理者である光田に対して言語化することもなかった。そして、自らが病み衰え、さらには療養所の資源が不足するなかで、閉塞感を強めたのだった。

このように、隔離が強められ入所者が苦しみながら成長を続けるなかで、志願して奉職したはずのハンセン病療養所が本当に患者のための施設たりえているかを小川に突きつけるようになった。患者のもとを離れて療養を続ける小川にとって、事業の意義を忘れ責任回避に腐心する中央官僚の消極的な姿勢や、隔離の徹底に向けて急速に巨大化する療養所の存在は、自らに復職をためらわせるばかりでなく、同僚や入所者双方に過度な負担を押しつけるものとなっていたからである。

松岡弘之『小川正子の晩景-近代日本のハンセン病隔離政策と臨床医-』

松岡氏は、小川が「深刻な矛盾」に気づいたが解決を見いだせないままに「生命が時間切れを迎えたというほうが相応しい」と結論づけている。私は時間が延びたとしても、健康を取り戻したとしても、たぶん解決は見いだせなかっただろう、否、解決はできなかったと思う。なぜなら、光田健輔に逆らうことはできなかったと思うからだ。たとえ小川が光田に対して意見を述べたとしても、やはり光田はそれを受け流すか、理詰めで説諭することだろう。それほどに光田は頑迷な人間であると私は思う。


小川と長島事件についての考察では、木村巧氏の論文『楽土/ディストピアの言説空間-小川正子「小島の春」におけるハンセン病の言語表象』を紹介しておきたい。この論文で、木村氏は「小島の春」の(本文の)章構成と、時間順(執筆順)の章構成を対比させて、次のように推論する。

時間順に構成しなかった理由について小川正子は、<「小島の春」の最後の一章に祖国浄化の完成する日への憧れが書いてあって、これが併せて四編の締めくくりをして呉れさうなので、検診行の時日の順序に依らぬ配置を為した事御諒承願い度い>(「後記」)と述べている。祖国浄化の完成を希望する記述が最後に配置されたこと自体に、すでに「小島の春」が発信するテーマは明らかなのだが、この構成が採用されたことには、祖国浄化と関連したもう一つの理由が考えられる。それは小川が勤務する長島愛生園で起こった「長島事件」が「小島の春」の中でどのように記述されているかという問題と関わっている。

…「小島の春」を構成するエピソード群を時間順に構成することは、<騒動>への言及が最後の章に位置することになり、そのユートピア像が揺らいだ形で「小島の春」を締め括ることになってしまう。読者の記憶にも新しい長島事件を正面から取り上げその原因と実態に言及することは、長島愛生園が患者の<楽土>であるという「物語」を損なうばかりか、進行中の無癩県運動などの隔離政策に悪影響を及ぼしかねない。隔離政策の一翼を担う小川正子の筆が、長島事件に言及するのを避けたのは当然の判断であった。その結果、「小島の春」の中では殆ど読者の目に留まらぬような<騒動>という表現が選択され、言及もわずかなものに留められたのである。

木村巧『楽土/ディストピアの言説空間』

あらためて『小島の春』を読み返すと、確かに違和感を禁じ得ない。章と章のつながりだけでなく、「淋しき父母」に読み取れる長島愛生園を<楽土・ユートピア>と強調して語る言葉に、どこか芝居がかった白々しさを感じてしまう。

『小島の春』の原稿は同僚の内田守に託され、長崎出版から私家版として刊行された。元々は西日本各地での検診・収容活動の経過を光田の指示で記録したものを、園誌『愛生』に連載したのが元である。光田や内田の思慮が働いたのか、小川の忖度だったのか。


可能な限り、それぞれの論者が考察した<小川正子と『小島の春』への検証>を読み込んで見えてきたものは、光田と同じ<両義性>と、自らの献身的行為を患者への<善意>と信じて疑わない<頑迷固陋>である。

…それ以上に「癩」治療に関する絶対的信念、すなわち隔離以外に方法はないという信念が見え隠れする。この、自分(救癩側)にとって正しいことは、患者(被救癩側)にとっても幸福であるという思い込み、これこそ、小笠原登を徹底的に癩学会で疎外・弾圧した光田健輔の態度の延長上にある小川の振舞いである。

荒井英子『ハンセン病とキリスト教』

人生そのものを奪い去られる被害を受けた人たちが、あくまでも同情されるべき存在として慎ましやかに存在する限り、限りなく同情もするが、「人並の言い分」を主張しはじめると身のほど知らず嫌悪するに至るからである。

徳田靖之「救らい思想と無らい県運動」

この徳田氏の指摘は、末利光氏にそのまま当てはまる。つまり、光田健輔の影響と呪縛を受けた小川正子や林文雄ら、そして現在に至るまで続く「光田イズム」を継承する者たち、彼らに共通する自己満足と自己正当化の論理である。

末氏がハンセン病市民学会からの公開質問に対して回答した中に添付された「解答資料」がある。「長島愛生園 真宗同朋会のみなさま」と題した末氏の一文と同様の記事である。手書きの添え書きには「私のハンセン病に対する差別・偏見をなくす啓蒙活動の一端」とある。内容は、遠路長島から小川正子の墓参に訪れたハンセン病回復者の方々を歓迎した顛末を、自らが細かく配慮して準備したことを自画自賛のように書き、それに対するハンセン病回復者の方々の感謝の言葉を並べて悦に入っている。特に強調しているのが、「黒川温泉事件」の二の舞にならないように気配りをホテル関係者やバス会社に入念に確認するくだりである。読む私には、来訪したハンセン病回復者の方々への異常なほどに気を使う姿勢や謙遜した態度を「思いやり」や「優しさ」と勘違いしているようで、滑稽にさえ思えた。
やはり末氏は、「黒川温泉事件」の本質をまったく理解していない。末氏の「差別・偏見をなくす啓発活動」は、小川正子の「癩の宣伝活動」と同質のものである。つまり、あくまでも「救癩側」からの活動であり、視線も立場も「救癩者」からのまなざしである。

末氏の文中に次の一文がある。

そのボランティアの一人がふと漏らしたひと言。「な~んだ。普通の人じゃない」と言ったのを聞いた私の友人が「あのひと言のためにわれわれの長い運動があったのだ。さすが正子さんの郷里ですね」と、すっかり感心していました。

果たして、末氏は自らが記した、この一文の意味をわかっているのだろうか。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。