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光田健輔論(45) 不治か完治か(5)

1941(昭和16)年、アメリカで「プロミン」が開発された。当初は結核の治療薬として作られたプロミンだったが、結核には効果がなく、ハンセン病には大きな効果が発揮され特効薬として認められた。1947(昭和21)年1月に長島愛生園において輸入プロミンを用いての治験が開始され、次いで栗生楽泉園でも始められた。4月には東大教授石館守三によってプロミンの合成が成功し、10月には吉富製薬が製造研究に乗り出して翌年には製品化した。日本でもプロミンによる画期的な効果が発表され、ハンセン病が「完治する病」となった。

プロミンの治験の経緯と効果に関しては、成田稔氏『日本の癩対策から何を学ぶか』に詳しい。これを読むと、治験当初はプロミンの効果が完全ではなかったが、それまでの大風子油などの治療薬よりは格段の治療効果であり、さらにプロミンをベースに研究が進み、DDSなど新たな治療薬も開発されていったことで、ハンセン病医療が「完治」に向けて大きく前進したことは確かである。しかし、プロミンに対する光田の見解は否定的であった。

ライの特効薬として「プロミン」の効果はアメリカのカービルの療養所で実験したことなどが「星絛旗」や「タイムズ」に出ているのを読んで戦後最初の所長会議のとき、私は療養所で試験的に採用することを提議した。
そして1947年から愛生園ではプロミンの注射をはじめたが、患者の希望は恐しいほどであった。しかし私の期待は患者ほど熱狂的にはなれなかった。ライ菌に関するかぎり予後の経過を十年見なければ正しい判定ができないというのは私の鉄則である。
効果は着々とあらわれて、化膿菌を防ぐから表面的には潰瘍などが治って、ライ菌に対する作用もたしかに効果をあらわしている。

光田健輔『回春病室』

光田は治験の効果を認めながら、なお「十年以上経過を見なければ真の効果は判定することができないであろう」と慎重である。さらに、次のようにも述べている。

…あらゆる力を治療に注ぐべきだと思うからである。さらにまたアメリカではプロミン以上の新薬の発見が伝えられている。化学療法の将来は非常に明るく、かつては不治の病とせられていたライが、全治する日も遠くはないであろう。病理の方でも、世界の科学者が全く開放的に、閥や党派を越えて真の共同研究を進めるならば、他の諸科学の進歩によって視野がはるかに広くなるから、菌の培養やその他の研究は必ず治療に新生面を開くことであろう。

光田健輔『回春病室』

小笠原登を排斥した光田の言葉とは思えない。この一文を読むかぎり、光田はハンセン病医療に尽力する医学者として実に真っ当な意見を述べている。だが、この一文の次に光田の本音が明らかになる。

しかし一方に伝染の道が残っていてはライがなくなることがない。
完全な隔離によってライの繁殖をおさえた上で、この治療をすすめてはじめて有史以来の恐るべき病気を日本に跡を断ち、人類から駆逐することができるであろう。

光田健輔『回春病室』

光田にとっては、患者が治癒することと感染源である患者を隔離し絶滅させることは「相反」することでも「矛盾」することでもなく、「相補」することであった。それは「ライ菌」への恐れであり、光田は「ライ菌」を絶滅させることが至上命題だったのである。

プロミンの効果が認められるにしたがって全快者放免の声が起こっている。ライは永い間不治の病と信じられていたが今日の医学ではもちろん治癒するもであると信じられ、治療に力が注がれている。それがために中世紀のように絶対隔離しなくても治ったものは放免していいのではないかという説がある。この考えは実に危険な考え方であってライの症状についての無知を暴露するものといわねばならぬ。あるいは治療至上主義的な政策から起こったものかもわからないが、いずれにしても正しくライの症状の変化を知っているものならば絶対にとり得ない道である。真相を解せず、一面だけを見て判断する「生兵法は大けがの基」という類いである。

光田健輔『回春病室』

この「最後の危機」と題した一文からも、光田が「プロミン」に対して懐疑的であることがよくわかる。光田は「ライ菌」の死滅を信じてはおらず、再発と感染の危険性から絶対隔離の考えを固持している。
光田は、この一文に続けて、ハワイのモロカイ療養所やフィリピンでの「放免制」によって再発したり感染が拡がっていることを例証として書いている。また、彼が出席した第三回国際らい会議(ストラスブルグ)において「治療の効果によって隔離をやめるのは未だよくない」と提言したことを書いている。この会議では「冷酷厳重で人道を無視するような隔離を避け、治療設備を完備させる」ことが決議されている。にもかかわらず、光田は絶対隔離に固執し続け、各療養所に「監禁所(監房)」を設置し、栗生楽泉園に「特別病室(重監房)」を造らせたのである。

私はライ患者は隔離所で治療するのが最も安全であると考え、これが快くなって全治したようなものでも、療養所を出て不規則な生活をすると再び悪化して手のつけようもなくなるような例を多々見ている。なるべくは療養所に止めて適当な作業をもたせるのがいいと信じ、重症者の看護や院内の福利をすすめる相互扶助の仕事につくことを奨励してきたのであった。
陰性になった患者を解放せよという問題は日本でも何回か起ってきた。治療の効果が顕著になったときと、政治的に不利な問題が起ったときにその動機となるのであるが、患者を解放することは非常に慎重でなければならない。軽率に解放を叫ぶことはせっかくここまで浄化せられて来た国内を再びライ菌で汚染させるに等しい暴挙といわねばならぬ。
ほとんど最後の一人まで収容して、伝染の危険から健康者を守って無ライ菌にできる明るい見とおしがついている今日、この擬全快者放免論は、朝鮮から密航して来るライの病者とともに、最も恐るべき暗影であるといわねばならない。

光田健輔『回春病室』

1950(昭和25)年10月に『回春病室』は出版されている。「自序」によれば、藤本浩一が光田の「生涯の記録」が記述されたとあることから、光田の書いてきた随筆などの散文をもとに藤本がまとめたのであろう。上記の一文の中に「昨年(1949年)」とあることから、引用した一文は1949~1950年のものと考えられる。

光田は、1950年2月の第7回衆議院厚生委員会、翌1951年11月の第12回参議院厚生委員会において参考人説明として証言している。特に参議院厚生委員会での証言は「三園長証言」として物議を巻き起こしている。これに関しては別項にて論述するが、光田にとっても厚生省にとっても、そして療養所内外に暮らすハンセン病患者にとっても、1950年からの数年間は激動の時期となった。


プロミンの絶大な効果は患者に希望の光となり、1948(昭和23)年、多摩全生園では自治会が中心となり「プロミン獲得促進委員会」が結成され、GHQ・大蔵省・厚生省、国会議員らにプロミン獲得の請願書を提出した。しかし、厚生省が大蔵省に要求した1949年度のプロミン治療費の予算6000万円は6分の1の1000万円に削減された。これに対して患者5人がハンストに入り、さらに患者代表は共産党代議士伊藤憲一の助力で吉田茂内閣の大蔵大臣池田勇人に直接陳情をした結果、患者側の要求に応じたプロミン治療費5000万円が認められた。そして、1949(昭和24)年からプロミン治療は本格化していった。

こうして、プロミンによりハンセン病が完治する病気になっても、それまで患者の絶対隔離を推進した人びとは、その姿勢をいささかなりとも変えようとはしなかった。長島愛生園長光田健輔は、1949(昭和24)年3月、プロミンの全面使用を求める患者に対して「大風子以上に効かない。何十年もの実績のあるものに信頼をおいた方がいい」と言っていたと伝えられるが(長島愛生園入所者自治会編『隔絶の里程』1982年)、1949年当時、新聞紙上においても、プロミンについて「これは八千人の患者全部について五、六年つづけてやってみないとはっきりした結論はでて来ない、いまのところでは傷がなおるとか、結節がひくといったききめはある」と語り、その全治という効果には懐疑的で、むしろ、プロミンの登場により「こっそりなおそうとしたり、大学などでなおそうというのは最も悪い、必ず療養所の門をたゝくことである」と、国立療養所への隔離政策が崩れることをおそれていた。

藤野豊『「いのち」の近代史』

光田らが絶対隔離政策を維持するために暗に企てたと思えることが、プロミンの治療は療養所でなければ受けられないとしたことである。成田稔氏は次のように書いている。

ファジェー(Faget GH カービル療養所)らによるプロミンの使用は1941年とされ、1947年にはコクラン(Cochrane RG)らによってDDS治療がはじまっているから、わが国はこの年からプロミン生成が軌道に乗り、DDSの治療は1951年とさらに遅れた。
ともかくDDSへの転換が速やかに進まなかった理由は、整脈注射によるプロミン治療なら患者を療養所に呼び込めても、内服ですむDDSは患者に社会復帰をいたずらに志向させかねないと、絶対隔離の惰性が光田ら管理者の考えを歪めていたからかもしれない。ところで、プロミンが国内医薬品メーカーの独占的な商品だったことと、厚生省の一括購入だったことは、何ら関係しなかったのだろうか。
プロミンによって、らいは不治から可治の病気に改まり、さらにDDSが、社会復帰や在宅治療の可能性を広げたのも確かである。しかし光田をはじめらい関係医師の多くは、細菌学勃興期における初期の予防医学的認識から脱皮できず、病原微生物(らい菌)の存在そのものを過大に評価していた。

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』

成田氏は『「らい予防法」四十四年の道のり』の中で「三園長の思い出」を書いている。光田が退官した後の1957年10月頃、愛生園に犀川一夫を訪ねた時、一度だけ光田と話したことがあると言う。光田は退官後も愛生園に部屋を持って「居座っていた」。

私のことは、あらかじめ犀川に聞いていたらしく、名乗るが早いか「眉や鼻をつくっているそうだが、そんなことをしても結局は無駄だ。またすぐ悪くなってだめになる。この病気は治らん」と言った。淡々としていたが、余りの言い分に黙っていた。…一言礼を言って部屋を出たが、玄関に立った途端になんとなく不愉快になってきた。…犀川は何もかもわかっているかのように、私の光田についての印象はまったく聞かず、急ぎ足に桟橋に向かいながら「(光田)先生は患者の前に立ちはだかるように、(長)島からは決して外に出さないと強気だったが、身内の不慮の災害を気づかう患者がいると、引き出しの中の俸給袋からひそかに旅費を渡したりもした」と言った。
いったん隔離した患者を一人も逃すまいと、人権無視もはなはだしい対応(懲戒検束権や断種など)を考える一方、困っている患者にひそかに旅費を与えてまで帰郷させるのは何ごとかと、虫明に向かう船の中では複雑な心境になっていた。

成田稔『「らい予防法」四十四年の道のり』

「新進の形成外科医を自負していた頃だから、言われて大いに傷ついたが、この病気は治らんとは光田の本音だったかもしれない」と、成田は『日本の癩対策から何を学ぶか』で書いている。私もそう思う。光田にとってハンセン病が「完治」する病になれば、自らが築き上げてきた絶対隔離の牙城は崩れ去る。それゆえ、光田はプロミンもDDSも認めたくはないのである。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。