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「またね」を言い続けて喪失の闇と戦っていた日々。

関係各所に多大なるご迷惑をおかけしながら、
先月末から即入院、
その日の夜に余命宣告を受けたずっと父の病院に通っていた。

もって2カ月、でもそれよりも早いと言われていたが、
今日の夜中に父は旅立った。
身内、誰一人息を引き取るタイミングには間に合わなかった。
それはもう仕方のないことではあった。

1日だけ自分の病院3つの為に行かない日があったが、
その日以外は毎日通っていた、そもそもワシが生まれた病院に。
姉貴は仕事の都合で基本土日しか動けなかったが、
ワシと共に孫らや従兄ら、
そして何故か我が介護人?(監視役)も混ざり面会し続けた。

出戻り姉貴らの影響で認知が加速した+心配事が増えた、
そして生活のルーティーンが変わったことも影響していたんだろうが、
何もかも手遅れで、どうしようもなかった。
それでも言い換えれば、
最後の時間をワシらと孫やらと過ごせたからいいのだろう。

宣告受けた、早めの期間での終わりではあったが。
主治医に言われた通り約二週間ではあった。

喪失の痛みと闇は十分自覚はしている。
けれどもある種自分には慣れがあり、
哀しいけれど哀しくはなかったりする。
あとから来るものは予測しているが、それ以前にやらなあかんことがある。
相続うんぬんではなく、戦いだ。(詳細は書けん)

それまでは自分の闇は封印する。
ほじくり出せば後悔も出てくるだろうが封印する。

末期でも聴覚と触覚は残るので、
会話成立しても、しなくなってもワシは無駄に話し続けていた。
これ、終わってる演劇人のサガかよ!とは思ったりもした。
介護関係の知識があったのも影響してるけど。
べらべら喋っていた。
手を握りつつも、
言葉が出せない甥(孫)らがきつそうでしょうがなかったし。
それもありつつ、やはり話しかけていた、ずっと。

父はワシのことが大好きであった、甘かった。
単純におかんに似ているからなのもあるが、
別に姉貴のことを嫌いなわけではなくて、よくわかんない甘さがあった。
廃人になったり心配をかけてたのもあるけれど。

ワシは「またね」と帰り際に言い続けていた。
確実に終わりが来るのはわかっちゃいたが、「またね」だった。
面会終わり時間に言うのはそれだった。
「バイバイ」を言う気はまったくなかった。
「じゃあね」も言う気はまったくなかった。
あまりそう遠くない時に自分が会うことも含めてそう言い続けた。

そして最後の瞬間には立ち会えなかったけども、
やはり「またね」を心の中で呟いた。

忘備録ではないけれど、ワシはやはり書くのだった。
記すのだった。
それもまたサガだ、公にする気はなかったけれども。
気持ちの整理ではない、
ただ「またね」の言葉を改めて父に送りたいだけである。

「またね、おとん」


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