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Phase 3 躍れ!自由気儘な、バックパッカー。


2018年、8月2日。

_____  さようなら。、世界。

___さようなら。、私。





2018年、5月末。

__あの日から、三日三晩うなされた私は、3日目の夜明け、四角く覗く空が白ばみ、明るくなると同時に “そうだ…癌だって私の一部なんだ” と…ふと、呪いが解けたかのような…心が軽くなったような感覚になった。『三日三晩なんて、よく言ったもんだわ…』まさに、ことわざ通りだと思った。

それまで喉を通らなかった食事も、自然と摂れるようになっていた。


さぁ、早く荷造りを終えないと。

ゲームかぁ…荷物になるし、これも買取りに出そう…

(この時既に、殆どのCDや本、その他諸々を売り払っていた。もう二度と此処へは戻れない覚悟で。そしてそれは後に現実となる。)


断捨離は進んだが、荷造りはなかなか進まない。そこには“帰りたい、でも、帰りたくない”そう悩む、私がいたからだ。

蛇足だが、両親(私は母の連れ子で父とは血縁関係に無い)とは、高卒で実家を出るまでの間において、一種のよく言う“わだかまり”があった。とてもじゃないが、内容は描く事が出来ない。なぜって、それが“私にとっては”月並みではなかったからだ。そんな訳で、(理由は他にもあったが)私は随分と長いこと、実家には帰っていなかった。

荷造りの進まない要因のひとつだった。



その、数時間前。

プルルル…プルルル…

『あ…母さん…?』『ははっ!久しぶりだね!』『あ、うん、いや、まぁ元気…あー、元気なんだけどさ』『突然なんだけど、実は』

… 他愛も無い挨拶を交わした後、まるでそれすらも挨拶かのようにサラリと



『 私、癌になっちゃった(笑) 』



そう、唐突に(だったと思う)告白した。

母の第一声は『はぁ?!』だった。何いってるのよ?という雰囲気の返しだった。拍子抜けした。

まぁ、母からしても、物凄い衝撃だったに違いないから、仕方も無い。

『いや、何かさ。年末辺りから胃が痛いなーと思ってはいたんだけど!ははは(笑)』

こんな時に私は、ヘラヘラしてしまうらしいという事を、この時初めて知った。自分のことは自分が一番よく知っているようで、その実全くもって知らないものだ。母の反応を見てもそうだ。人間突然とんでもない話をされると、思考が追いつかないらしい。

『でさ、あのー、手術しなくちゃならなくてさ。同意書…いるらしいんだよね?なんで、書いてもらいたいんだけど…』と、しぼり出すように本題を口にした。

(頼み事をするのは、昔っから大の苦手だ)

母は電話越しに向こうへ話し掛けている。どうやら父も居るらしい。

ソワソワ待っていると、母は勢いよくコチラに話し掛けた。『〇〇?聞いてる?こっち帰ってこんね。こっちの大学病院が良かけん。手術ばするとでしょ?入院中見舞いとか行かれんけん、そっちでは。』

私『そう、手術するんだけどさ…』

母『お父さんも帰って来いっち、言ってくれよるけん。取り敢えず帰ってこんね。ね?』



__こうして、私は、長らく振りの地元へ帰ることとなった。

色々と不安な点はあったが、長いこと両家の墓参りも出来ていなかったし、弟妹にも会えていなかった。癌になったのは、そういう理由もあるのかも知れない、たまには顔を見せに来い、墓参りくらいしろ。そういう、ご先祖様の皮肉なブラックジョーク的はからいなのかも知れない。そう、思った。

癌になったことを肯定的に捉えるというか、受容しようとしているというか、あの夜明けから、そんな思考が自然と動き始めていた。

しかし、それはとても不安定なものだった。一瞬毎に、肯定的に、そして、否定的になっていた。まるで落ち着きが無かった。頭の中では底なしのジェンガのビルディングがゆらゆらしていた。心の中ではザワザワと方向の定まらない風が、ミステリーサークルを作りそうな勢いで吹き荒れていた。それくらい、おかしいほどに支離滅裂で不安定だった。



とりあえず、こんなもんでいっか… 。

散々盛大に散らかした挙げ句(部屋も頭も心も)、荷造りはかなり大雑把に終了した。別に、どうでもいいや。こんなもんでいいだろ。

最終的に、そう思った。

そして気付けば荷物は、背負って旅行に行くレベルのサイズに収まっていた。


そうだ!私は、自由気儘なバックパッカーさ!旅に出るんだ!懐かしい場所へ♪

なんて、劇団員よろしく、バックパックのジッパーを躍るように軽やかに閉めた。


『久し振りだなぁ、海か、、』


エメラルドグリーンの海との再会に、暫し思いを馳せながら、そう、独り言ちた。




Next Phase…






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