見出し画像

夢のグラデーション

東京ディズニーリゾートが好きだ。
幼い頃から頻繁に両親が連れていってくれたためだ。家ではディズニー作品のDVDを擦り切れるまで見ていたこともあり、ディズニーキャラクターやパークの雰囲気自体にもワクワクした。

今でも年に一回はパークへ行く。家族とではなく、主に友達と。父の運転ではなく、電車でだが。
何度も行っているので幼い頃ほどの感動はないが、それでもチケットをリーダーにかざし、入口を通った時の高揚感は健在である。

ディズニーリゾートへの旅において、私が一番好きな行程は、その帰路だ。
もちろんパーク自体は楽しいし、アトラクションにも、フードやショー・パレードに不満があるわけではない。ただ、一番ディズニーの魔法を感じるのが、その帰路というだけのことだ。

私はディズニーリゾートのある舞浜からバスに乗り、そしてそれからは電車で帰ることにしている。東京経由で帰ってもいいのだが、それだと京葉線ホームから伸びるあのアホ長い通路を歩かねばならない。体力のない私にとって、それはかなりしんどい選択なのだ。行きの時はまだしも、体力を使いきった帰りにまで歩きたくはない。しんどい。


ともかく、この「舞浜発バス→電車」という流れはかなり風情があるのだ。
パーク内では100%夢の国の魔法がかかった状態だ。素敵なBGMや清潔なパーク、そして笑顔で丁寧なキャストさんに囲まれ、まるで自分が特別な存在かのように感じる。

そしてパークを出て舞浜駅のバスターミナルへ行く。この時点では魔法が80%ほどかかったままだ。目につくのはディズニーホテルや帰路につくゲストばかり。その中に、バスという現実的な乗り物が現れる。それは夢と現実、非日常から日常へと我々を帰す方舟なのだ。
バスに乗り込み、運賃を払う。この時点で、魔法の力はすでに弱まっている。なんとなくだが、パーク内で財布を取り出す時より、バスでSuicaを取り出す時の方が「金銭」を感じる。運賃という、現実的でシステマティックなものにお金を払っているからだろうか。

やがて席に着き、バスは出発する。
車窓の首都高を眺めつつ、うつらうつらしているうちに、シンデレラ城が遥か遠くに行ってしまったことに気付く。この瞬間がたまらない。オレンジ色の街灯に照らされた道路は、どこか切なく美しい。

眠りから覚めると、運転手が目的地に着いたことを告げている。
魔法はかなり解けている。残り20%ほどだろうか。周囲の景色は、先ほどのパーク内と比べかなり無機質で、システマティックなものとなっている。立ち並ぶビル、煌々と輝くバスターミナル。ここにきてようやく、自分はディズニーリゾートから帰ってきたのだと実感するのだ。

荷物を抱えバスを降り、電車に乗る。
ここではもう魔法の力は残っていない。ほぼ0%だ。電車の窓から見える風景は、日常的な、もう見知ったものばかり。もうすでにパークからは遠く離れ、スマホを開き、翌日の予定などを確認するフェーズに移行している。
そして、あとは改札を抜け、自宅へ帰り、楽しかった一日を振り返りながら眠りにつくのだ。


一見ただ帰るだけのように思えるかもしれないが、個人的にはこの過程が一番好きだ。楽しかったパークとのギャップというか、どんどん魔法の効力が切れていくグラデーションが美しいとすら思う。

個人的な所見だが、ディズニーに関わらず、この世のものは有限だから美しいのではないか、と常々思う。諸行無常と言うべきか。何事においても、無限のものはない。この宇宙ですら、遥か遠い未来に消滅してしまうらしい。だからこそ美しい。無限のものには、「その場限りの輝き」がない。ずっと美しいものは、果たして本当に美しいのだろうか。


なんかごちゃごちゃ言った割に凡庸な結論に落ち着いてしまった。
ともかく、ディズニーリゾートから乗るバスは最高って話でした。おわり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?