母が亡くなった

突然の事でまだ動揺している上にスマホで書いているので誤字脱字があると思うのですがどうかご容赦ください。


母の死因は飛び降り自殺でした。
深夜にマンションの7階の階段の踊り場から飛び降りたそうで、ほぼ即死であっただろうと警察の担当の方から言われました。

何故そんなことをしてしまったのか、思い当たることが全くない訳ではないのでつらつらと書いていきます。

1.母方の祖母の死

母方の家族はとても仲が良く、良い関係であったと思います。
親戚同士の付き合いもあり母が小さい頃から楽しく過ごせていたのであろうと思います。
そんな中、自分が小学生5年生くらいでしたでしょうか。
数日前まで元気だった祖母が亡くなりました。
クモ膜下出血でした。
病院には搬送されたのですが数日後、先生方の治療も虚しく確か脳死判定で死亡確認を受けた記憶です。
母、祖父ともに非常に悲しんでいました。
無論父も小さい頃からの付き合いもあり、泣いていました。
火葬、通夜、告別式がありとても大変でしたが母は頑張っていました。
ですが上記の何処かだったか覚えていませんが夜中に母が喚くように泣いていたのを覚えています。
父が慰めていたのも覚えていてかなり大きな声だったのでたまらず姉弟ともに起きてしまいましたが寝たふりをしながら聞くことしかできない夜を過ごしていたと思います。
祖母は享年が60代前半ととても若くして亡くなったので母はとてもショックだったと思います。

母が悲しみのあまり喚いていた時、自分はそのまま起きてなにか言ってあげれば良かったのだろうか。

2.母方の祖父の死

母方の祖母が亡くなったあとしばらく経ち、祖父の持病?か何かが悪くなり調べたところ白血病ということが分かりました。
1年だったか、半年だったか闘病生活の末に一度は完治し祖父は元気に釣りやパチンコに行っていたりしました。
一度治ったので自分は安心していましたが数ヶ月後だかにまた再発しました。
最後の時が近づいた頃いち早く病院に父と自分含め二人姉弟着きなんとか、なんとか祖父は頑張っていました。
母と叔父(母の弟)が到着し、祖父はそれを見て安心したのか静かに息を引き取りました。
母は洗濯物を畳んでいたので到着が遅れたことを非常に後悔していました。
叔父にずっと謝り続けてしばらく泣いていました。
こればかりはどう母に言って良いかわからず子供とはいえ母の心のケアができませんでした。

祖父は待っててくれた、それで良かったじゃないとでも言えば良かったのだろうか。

3.父の立ち上げた会社を畳むことになり家を売り払わなければならなかった事と母のうつ病

父が会社を立ち上げる前に倒産してしまった前の勤め先の債権回収で父が保証人になっていてお金を借りて返したはずのお金が返されておらず全てを売り払わなければいけなかった。
母は箱入り娘でどうしても実家を出たいという思いと家を買ったことでとても充実していたと思いますが、1.2.のことが起こった後に母は重度のうつ病になってその後これが起こり、腕を切ったり腹を切ったり自傷行為を多々起こすになり、一度地元のでかいスーパーの屋上から飛び降りようともしました。
その時は姉が一緒に買物に行っていたので引き止められました。

この事が起こった当時、買い物に行く前に姉から一緒に買い物来てよと言われていたのに断ったことを自分は非常に後悔しています。

子供の自分にはいまいちどう接していいかわからず父に任せてどうにか凌いでいました。

この頃は確か高校生から専門学校にかけてのことなのですが自分は上手く学業に打ち込めず部活からも逃げゲームに逃げる事が多かったと思います。
同級生や部活の先輩や後輩、先生方には多大な迷惑をかけて本当に申し訳無かったです。

この当時はなぜ会社を畳むことになったのか、詳細が聞けず終いでした。
家族として父に詳細をきちんと聞くべきでした。

4.東日本大震災と仮設住宅での生活と愛犬の死

3のあと母方の実家にお世話になっていましたが東日本大震災が起き、もともと居候であったのもあり仮設住宅に入ることになりました。
仮設住宅では楽しい事もあったと思いますが、今度は父が自殺未遂を何度か起こしました。
住んでいる家族3人(両親、自分)うつ病でとても大変でした。
父はオーバードーズをし、腎臓だか肝臓だかがだめになりかけましたが奇跡的に後遺症もなく治りました。

そして自分が東京に就職した後、愛犬のコーギーが確か13歳になる直前に腎不全で亡くなってしまいました。
オーバードーズをしたりはしなかったのですが夫婦共に酷く落ち込み、新しく犬を買う決断もどうにもできなくて、父は確か不眠症の症状がかなり強くなったと聞いています。
こればかりはしょうがないのですが、東京に出ていたとはいえ自分がそばにいれば心のケアができたかもしれません。

5.自分が体を壊し、実家で療養し始めた頃から父のノイローゼ、オーバードーズがあり大変だったこと

自分が東京に就職が決まり転職もありましたが働きすぎて体を壊して実家に療養に戻った時のことです。
両親のうつ病がどのようになっているかとても気掛かりでしたが、様々なことが重なり僕が戻ってきてから父のオーバードーズやノイローゼが度々起きてしまっていました。
自分自身も何度も救急車を呼んだり、オーバードーズの現場を見たり、父から遺書を直接手渡しされたりとで非常に精神的に参ってしまいました。

母もとても辛かったと思います。
元々自分の本心を家族にもあまり言わない節があったので度々大丈夫か、ちゃんと寝ているか聞いてはいましたがカウンセラーの先生に僕の独断で連れて行って診てもらうべきだったかもしれません。

自分がなぜ飛び降り自殺をしてしまったかなにか原因になりそうなことをだーっと書いてみましたが直近では良い事もありました。
姉夫婦に子供が生まれ、初孫ができたことです。
ばぁばだよ〜なんて言ってあやしていたっけなぁ。
産後すぐから現在の生後4ヶ月になるまで姉夫婦の家に色々手伝っていたりしたのに。

もう一つあるとしたら母が自分からなにかやりたいと思い行動することを見つけてあげられなかった事もあるかもしれません。

生きる事よりも、母方の祖父母や愛犬に会いたいという思いが勝ってしまったんだろうか。

母方の祖父母もより若くして亡くなるなんて、只々悲しく甥っ子が大きくなった時なんて説明したらいいのだろうか。

警察の遺体安置所で触った冷たい母の肌の感覚を心が覚えているかのようにずっと左手が冷たくもないのに冷たい感覚がずっと消えない。


2019年4月12日記
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その後は親戚が集まり静かに火葬が行われました。
唯一生きている祖母が心無いことを父に言っていたのは許せなかったのですが、元々そういう人なようなので無視しました。

久々に親戚が集まり他愛のない会話をし、父も少しは心穏やかになったと思います。
甥っ子に本当に感謝しきれません。
将来覚えてはいないだろうが、みんなの心を救ってくれているのだろうから。

拾骨の時間になり、骨になってしまった母を見た。
母は少食であまり運動もしなかったためかあまり骨は残っておらず、頭蓋骨の部分は落下の衝撃でボロボロで痛ましい血の痕が残っていました。

その後葬儀屋さんの会館に戻り、会食をした後家に帰ってきた。
久々に帰ってきた家では愛猫が玄関の方を見て台所からこちらを見ていた。
おかえりとでも言ってくれているかのように。

その後母を骨壷?や線香等を置く簡易の祭壇が葬儀屋さんから届き組み立ててもらい母の骨壷を置きました。

この祭壇が届く随分前に疲れ果てて夜中まで寝てしまいました。
一人だけ線香をつけに来てくれた人が居たようですが、かなり酷い事を父に言って姉まで酷く傷ついていました。
母と仲が良かった反動でそうなったのかもしれませんが、その方にはもう少し大人の対応をして欲しかったと思います。

次の日になって仮設や復興住宅で母と仲が良かった方たちが線香をつけにきてくれました。
最初に来てくれたおばあちゃんがとても良い人できっと父も勇気を貰い、父が無意識に入り命を断とうとした時、我に返り踏みとどまってくれそうなことをたくさん言っていただけました。
もちろん僕ら姉弟も襖一枚隣にいて聞こえていて勇気を貰いました。

夕方に復興住宅で中の良かった方々と両親の学生時代の恩師が来てくださいました。
復興住宅の方々は事前に言っていたこともあり父を励ましてくれて、空気を読んでくれたのかまた今度ね~と言って帰っていきました。

恩師の先生との会話は全然聞こえなかったのですが、また勇気を貰えたようで父の顔に息子から見たらですが少し余裕ができていました。

次の日になり、自分が小・中学校の時母と仲が良かった人たちに今回のことを伝えるために義兄に車を運転してもらい、自分が育った街に向かいました。
時間に限りがあったので全部は回れなかったのですが、電話等で連絡先を知っている人たちをところを回りました。
中には母と子供の頃の付き合いの方もおり、大変ショックを受けていました。
そして自分のことを心配してくださる方々も居て自分も救われました。

育ち街には並々ならぬ思いが自分にはあり、行くと決めた前日風呂の中で4時間ほど泣きべそかいてました。


最後に

TwitterとFacebookでこれを公開というかリンクを踏んで見て読んで下さった方々、ここまで読んで頂き本当にありがとうございました。
かなり辛く、重い内容でしたがこれが自分の近況です。

東京ではフロントエンドというかWebコーダーというか、そういう仕事をしていたのですが、4,5年のブランクがある自分ですが少し落ち着いた後在宅の仕事がないか東京に行って、以前から心配して下さる方々にご挨拶に伺うかもしれません。

東京で仕事をしたい強い思いがあるのですが父がどうにか安心して暮らせる環境か人間関係ができるまで東京には行けなさそうです。

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