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アンチ・労働宣言

労働がきらいだ。この世で一番したくない行為のひとつである。

一方で、ものを書くのはたのしい。人の話を聞くのもおもしろい。

でも、楽しいことやおもしろいことと、労働をしたくないことは両立する。楽しいのも面白いのも無意識下に「労働のわりに」という枕詞があり、純度100%のものではないからだ。

そもそも、労働には義務性が伴う。依頼を受けたらやらなくてはないけないし、締切もある。それになんといっても、生きるのにはお金が必要で、お金を稼ぐ手段として資産のない一般庶民には労働くらいしか用意されてないからしぶしぶ労働をしているにすぎない。そんな義務的な気持ちでしているものが100%楽しいわけがないのだ。

たとえばわたしは読書が好きだけど、どんなに興味のある本であっても「○円払うので、いつまでにこれを読んでください」と言われたら途端に義務感が生まれて嫌気がさすだろう。

本当はそんな義務にまみれた労働なんかせずに、好きな時に好きな本を読み、外国語を学び、西洋哲学や文学などに触れて、死や人間の本質についてだけ考えて生きていきたい。労働なんてしたくない。

でも、仕事をせずに本だけ読み、生きるお金がなくなったら覚悟を決めて死ぬことができない。新しい本を買いたい欲もある。そうした臆病者でヘタレで欲深い俗物だから労働をしているだけである。命と趣味を人質に取られて逃げられない奴隷みたいで最悪だ。

こんな状態でしぶしぶ働いてるにもかかわらず、社会には仕事を好きでいること、仕事にやりがいを感じることを求められるような空気感があるのを感じる。意味がわからない。

ちゃんとアウトプットを出していれば、労働が嫌いであろうがこの世から消えてほしいと思っていようが気持ちなんてどうでもいいではないか。付属品のくせに人生の本丸みたいな顔してんな。

そんな気持ちまで労働に組み込まれる世界は間違っているとわたしは思う。何が多様性なんだろう。

なのでそんなどこまでも労働に忠実であることを求める社会に対抗するために、わたしはこれからもガンガン労働を憎んで、労働が嫌いだと言っていきたい。


……という労働への呪詛という体裁で、文学サークル「お茶代」の課題「わたしのトリセツ」を書いてみました。そういう社会システムである以上は仕方ないので、たくさんの本を読んで人間について学び、考え続けるためにちゃんと労働するけど、できればぜんぶやめて高等遊民になりたい系の人間です。人生をかけて労働はできません、ということです。以上。

12月からフランスに行きます!せっかくフランスに行くのでできればPCの前にはあまり座らずフランスを楽しみたいので、0.1円でもサポートいただけるとうれしいです!少しでも文章を面白いと思っていただけたらぜひ🙏🏻