ジャック・ラカンの入門書を読んだら、わかりやすすぎてびっくりした話
先月、ジャック・ラカンの本を読んだ。詳しくは下記のnoteに書いたが、まあこれが意味不明だった。わたしはそれまで精神分析に触れたことはなく、門外漢も門外漢だった。なので知識不足なのもあっただろう。でもなんというか、日本語として「???」という感じで全然何を言っているのか分からなかった。
そして「いつかこの人の書いたものを理解したい」と思っていたところ、ラカン入門書である『疾風怒濤精神分析入門』が『ゼロから始めるジャック・ラカン』とタイトルを変えて文庫化されていると知り、読んでみることとした。
「えっわっかりやす。なんなのこれ。これ書いた人天才じゃない??」
第一の感想はこの一文に尽きる。あんなにわかりづらくてめちゃくちゃむずかしかった、というより、むずかしいのかすらよくわかんなかったくらいなのに、それを理解してかつわたしのようなド初心者に理解できるように噛み砕いて説明をしてくれているなんてやばすぎる。とんでもない知性。
わたしはまず「精神分析とは何か」から本書で学ぶこととなったわけだが、精神分析家の役割は「絶対に共感しない他者」になることだというのがまず面白かった。
人間は時を経ても大きく変わることはなく、同じような性格のままだし、同じような考え方をしてしまう。そして同じようなことで悩み続けることとなる。そこから脱出するために、「絶対に共感しない他者」としての精神分析家が大きな役割を果たす。共感されないことで、これまでの自分の考え方を見つめ直す機会となるのだ。
また、ラカン理論についてもこれまでとは比べ物にならない粒度での理解を得ることができた。
ラカンは、「人間の精神は想像的なもの・象徴的なもの・現実的なものという三つの要素が合わさって形作られている」(p111)と考えたという。
ここで気になったのが、本筋とは関係がないが、原語では「l'imaginaire」、「le symbolique」、「le réel」と表されているものが「想像的なもの/想像界」、「象徴的なもの/象徴界」、「現実的なもの/現実界」の2つの言葉に訳されていることだ。基本的にラカンの解説書でもこの2種類が使われているらしい。
「〜もの」と「〜界」では受ける印象が大きく違うし、逆に分かりにくくない?とか、どうしてもひとつに統合できるいい言葉がなかったのであればいっそカタカナで輸入した方がよかったのではないかと思ってしまうのだけれど、なぜこうなったのか有識者の方教えてください。
さて、本書で大きく理解が進んだとはいえ、やっぱりラカン理論はむずかしく、まだまだ分からないことも多いし、ラカンについて語ることなんてできそうにない。でも意味がわからないところから、ふわっとは理解できていてなんとなく面白いかもと感じられるところまではこれた気がする。
わたしのラカン理解までの旅はまだまだ続く。To be continued.
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