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宗教者はおカネの話をしないほうがいいのか?

こんちは。
今日は、宗教者とお金、についての沼だよん。
しばし蓮沼につかって、ふだん考えないことに浸ってみよう!

観光寺院は、札束が舞っても生臭くないのはなぜか?

菩提寺(お墓のあるお寺)にお金を「取られた」と言う人は多い。

だけど観光寺院には、入館料・お賽銭が日々じゃんじゃん入っているけれど、誰も生臭いとは思わない。

お賽銭したぶん、ちゃんとご利益が感じられているからだ。

葬儀や法要でお布施を「取られた」と言っている人は、お包みした金額にみあうメリットを、得られていないと感じている、ということ。

〝いいお坊さん〟は、堂々とお布施をもらっていい!

逆に、無償で悩み相談に応じたり、ボランティアでさまざまな奉仕活動をされている宗教者のかたは、お金の話をすることを避け、相談者がお布施をお包みしようとしても、「いえいえ、宗教儀礼をしたわけではないですから」と固辞なさることがしばしばある。

宗教者からすると、生老病苦の悩みを傾聴することは、ご自身の修行なので、お布施をいただくことではない、とお考えかもしれない。

もちろんそれも、一理ある。

けれどもいま、お布施を「取られた」と感じて菩提寺から墓じまい・寺離れをしている人々は、ほんとうに助けてくださった宗教者には、お布施をしたいと感じているのだ。

そして、山へ籠もって修行をしたりする時間のない一般市民にとっては、余暇を少し節約し、食べるのを少し我慢して差し出す財施(金銭による布施)こそが、〝修行〟そのものなのだ。

昨今、心の悩みを無償で吐き出すことのできる井戸端会議もなく、SNSではかえって気を遣って言葉を選ばないと攻撃されるおそれもあり、カウンセリングのプロに話を聴いてもらうと1時間で数万円がかかるわけで。

相談者のなかには、経済的に困窮している人もあれば、裕福だけれど多忙で心をすり減らせている人もある。

「お布施をしたい」というかたからは喜んでいただき、さしだす余力のないかたの相談に応じたり、他の慈善活動のための資金にまわしてゆかれたらよいと思う。

動画のなかでは、それを「色即是空 空即是色」になぞらえてお話しした。

お金をもらうから生臭いのではない

助けたい人がいるからお布施をいただくのであって、もちろん宗教法人に入ったお布施の一部は僧侶の給与になるけれども、大半はふすぐに別の困窮者へまわしてしまう。

つまりいただいたお布施は住職個人と結びついてなにかの実体となることはなく、すぐに「空」となる。

また別の困窮者が見えてしまうから、助けたくなる。
その〝助けたい〟という欲求の湧き出づるご縁で一瞬だけ(色)が成り立つのだけれど、またすぐに「空」になっていく。

そのようにお考えいただけば、お金の話をするのはちょっと……、と遠慮なさるお気持ちが少し解き放たれるのではないか。

いいお坊さまには元気でご活躍いただきたい。

お金は水と一緒で、貯め込まれたらよどんでしまいます。
たくさん巡らせて、いただきたいのです。

ではまた。明日も蓮沼へハマりに来てね♪


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