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ちびまるこ。

つい先日静岡市美術館までちびまるこちゃん展を観に行ってきた。
静岡県民のみならずみんな大好きなちびまるこちゃん。
当時まるちゃんと同じ9歳だった私は、ちびまるこちゃんに夢中になった。
顔に縦線が出る初期のまるちゃんの困った顔は、私たちの間でブームを巻き起こし、何か不具合が起これば、反射的に顔に人差し指を沿わせて、上から下へと降ろしながら「タラーン」と声まで出してはまるちゃんの世界観で困った自分を表現していた。
あの頃は困った自分と軽やかに遊んでいたんだなと、今では思う。

まだ9ヶ月になったばかりの娘を大切に抱えながらわたしと共に美術館に来てくれた夫。
2人を横目で確認しながらも、さくらももこが創り出した世界へと入り込んでいく私。
さくらももこのエッセイの原稿や、彼女が作った工作や、ちびまるこちゃんの漫画の原画、フルカラーの扉絵、直しが入った資料。
ふと彼女が小学校の卒業文集に書いたという文章が目に入った。
何度も何度も読み返してしまったくらい、その文章は素晴らしかった。
彼女を通して描かれた入学式の日の描写と彼女の感じた入学式というものが、繊細な感覚で表現されていた。
過去と現在とこれからがこんなにも柔らかい文章で簡潔に表現されていたことにびっくりしたし、喜びと共に小さな寂しさみたいなものも、きちんと描かれていた。
これって彼女がさくらももこになる前からあった感覚なんだなぁと感心してしまった。

「ほのぼの劇場」で描かれた「ちびまるこちゃん」とはまた違ったさくらももこの世界。
初々しくて、まるで新芽みたいに柔らかい感受性で生きた季節を切り取って描いた漫画たち。
彼女の卒業文集には、さくらももこへと花開くための蕾がしっかりと膨らんでいるのが感じられた。

そしてコジコジの世界。
私は今までコジコジをまじめに読んだことがなかった。今回美術館で、小さなコジコジを愛でながら展示されていた漫画を読んだら、目から鱗状態でした。
コジコジは哲学だと言う人は沢山いたけれど、本当だった!
わたしの人生に足りなかったのはコジコジか!

コジコジが宇宙の子供だってことを知らなかった。彼女なのか彼なのかすらわからないけれど、かわいい顔をしながら、鋭く尖ったナイフみたいな言葉を人間の世界へと投げつけてくる。
こっちはその真っ当な言葉の暗闇のない真っ当さに、拍子抜けするくらい真っ白になる。
神様みたいな位置付けで、コジコジはきっと存在してる。
そう思いたくなるくらい真理を突いた言葉を放ち、たかだか人間が考える正直さや誠実さなんてものも一気に吹っ飛ばしてしまうくらいパワーある小さな生き物だった。
愉快に破壊的で裏表なんてなくって、でも
コジコジであることに揺らぎがない。

ふと思った。
私はどちらかと言えば、いやはっきりいえばちびまるこちゃん的要素が満載の人間だ。
小さな頃から顔にタラーンの線を落としながら、ビクビクしたり恥ずかしがってみたり、センチメンタルに侵されたりしながら、どうにかこうにか生きてきた。
ちびまるこちゃん的なほのぼのさも自分にはあると少しは自覚しているけれど、地べたに這いつくばりながらみっともないくらいに人生を泳いできた。

旦那に抱かれている娘は、しっかりとした四角いお顔に、大きく鋭い目。
時々見せる不貞腐れたような表情や、チャラチャラっとした笑み。
前にさくらももこの描く赤ちゃんや子供に似ていると夫が発見したときから、私の中で娘はさくらももこ一味に加わってしまった。

大円団の中に娘もいて、笑ってる。

私がちびまるこちゃんなら、娘はコジコジかな。まだまだこの世界にやってきて間もないし、宇宙人といわれれば、実際にそう思える。
これからのこの娘との日々が急に楽しみな
風景に染まり、子育ての、ある種一方向からの大変さすらもコジコジ的に考えたら、大いなる悟りに繋がっていくようで、私は理由も根拠もない喜びにゆれる心の尾鰭を、大事に気持ちよく泳がせていた。

帰り際に小さな絵を買った。
まるちゃんとコジコジが太陽に照らされて
光の粒たちと一緒に立っている。
同じように上を見つめながら、確信に満ちた優しい顔で、ほんわかと存在している。

私はこの娘とこんな風に生きよう、大袈裟だけれどそう思った。

この世をドタバタとおもしろがるまるちゃん(オチつき)と、全ての根源である宇宙から来た無敵なコジコジ(時に残酷)に私たちを重ね合わせて、壁に飾ったこの小さな絵の中の2人みたいに存在していよう、と決意した。
















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