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描いた夢を信じきれない弱さにただ支配されてた

「自分の人生くらい自分で決めたい」
とはよくいうけれど、人生をコントロールするなんてことはなかなかに不可能だと思う。

だって入国審査とかで意地悪な人に当たったら別室に連れて行かれて「なんで宿の予約してないんだ!」「帰りの航空券もなくて、お前は難民になるつもりだな!」とか疑われるわけですよ。
やっと釈放されたと思ってももう荷物はぐるぐる回ってなくて、別の窓口で無愛想なお姉さんに頑張ってお願いするしかないんですよ。

あとは赤子を育てていたら、自分は眠いのに赤子は寝てくれなくて、ミルクを作ったら寝ちゃって、よっしゃ寝れると思ったらオムツタポタポでギャン泣きされて、替えてもまだ泣き止まなくて、寝るどころか夕飯の買い出しも行けないわ!え?雨?!?!洗濯物も取り込まないと!
とかなるわけですね。

他者に振り回されることこそが人生で結婚で社会でnoteです。

自分で決められることなんて、
スーパーまでの道のりをちょっと遠回りするか最短距離で行くか、ここで右に曲がるか次の角を曲がるか、くらいなものでしょう。

あとは配偶者に文句を言われるのを覚悟の上で洗濯物ビシャビシャにして洗い直してもらって、
ツイッターで批判されるのを覚悟の上で赤子のオムツはタポタポのまま放置しておけばまあ、眠ることはできます。

が、私の場合、人から責められるのは嫌いなので、全部うまいことかわして生きていきたいし、大体のみなさんもそうではないでしょうか。

叱られたくない。自分のペースで生きたい。
きっとこれはほぼ全ての人類に共通の願いです。
朝から学校に行くとか無理だし、電車とか嫌だし、決められた時間にせーのでみんなと走るのも嫌だし、もう3桁の割り算もできるのに九九でつまずく同級生に合わせるのも嫌ですよね。

でも、そういう嫌な諸々が日々繰り広げられている学校という場は、本来とても可能性に満ちているはずです。
だって、学校に行かなかったらあんなにたくさん、ただ同年代に生まれたというだけの知り合いはできなかったはずです。
公園でお友達を作れるタイプの皆さんは置いておいて、私のようにただ黙々と木の皮を剥がすことだけ三時間続けていたタイプの人間にとって、学校とは素晴らしい制度なのです。
学校で出会う、同級生や教師などがいい人間かそうでないかは別問題として、いろんな人間がいることに目を向けされてくれるというのは素晴らしいですね。

そして教師や国家、社会などの教育者側からしてもとても便利なことには変わりありません。
年齢で画一的に区切って、最低限これくらいはできていてほしいな、という知識や教養などを均一に植え付けることができるのですから。
文字が読めない人が増えたり、パプリカを数えられない人が増えたら生活は大変ですからね。

その意味でもやはり義務教育は大切だし尊いものです。
ただ!教育者側がそれを逆手にとるというか、見せたいものしか見せなかったり、教えなかったりできてしまうのは大きな問題点ですし、それらが横行していたのが戦前の日本であり、他国であり、ひょっとすると現在の日本なのかもしれません。

義務教育の義務色が強くなりすぎると、生きることも義務になって(現行ほぼ義務だと思うけど)(つらい)(死期がわからないから人生がしんどいし死にたくなる)、自分は自分として自分で生きてゆくぞという主体性が欠如し、損失し、人生が死んでゆくのです。

ある程度、文字が読めて計算ができるようになったら、自分でものを調べ、考え、己の好奇心を自らの方法で満たすべきです。
そうして得た知識は強いし、それらがあれば人生が少しは生きてくるはずです。

つまり人間は皆、自分で成し遂げた、という実感が欲しいし、それなしでは真に生きられないのです。
自分には力があると思いたいし、頑張れば成し遂げられると思いたい。
自己効力感ですね。
3年前(!)ロールシャッハやSCT、バウムテストなどを何日もかけてやった結果、私に足りないと言われたものです。知るかいな。

自分で手に入れたいと思って、自分で努力して、自分で手に入れたものは特別大切だし大事だし思い入れがあるよねってことです。
それは自分の能力や努力が報われ、時に評価されたと感じられるからですね。
思うようにできなくて泣いちゃうイヤイヤ期も人間として当たり前の感情で当たり前の反応というわけです。27歳だけど許してね。

スーパーで買うより輪投げや射程でとったお菓子の方がなんとなくワクワクするし、自分で掘ったお芋は美味しいねーとかと同じです。
準備から何からすべて自分でこなした料理はなんだか特別なのと同じですね。
でも私は好きな人の用意した料理を美味しそうに食べる役の方もたまには引き受けたいです。そのお礼なら洗い物もがんばれそうです。

ワクワクを売るのはいいビジネスですね。
何か売れるワクワクないかな。生きるにはお金が必要だと知ってびっくりしています。

いつまでも親に頼ることはできないと気がついたし、頼らせてくれる他人がいたとしても、それじゃつまらないし、自分の人生を生きていると言えるのか?とか思うようになったので、ちゃんと自分で生きていけるように、いっぱいお金を稼いでみたいなとか考えるわけです。
齢27にして。ようやく。
同級生は一軒家とか建て始めてるのに。すげー!

親や配偶者や時に福祉に助けられて生きるのと、自分の稼いだお金で自由に暮らすのは、満足度が違うなって知ったわけです。
自分の働きや能力への対価としてお金がもらえるのがとても嬉しいことだとはなんとなく知っていたけれど、それに加えて、そのもらったお金で思うような暮らしができるってすごくない?!と思うわけです。
齢27にして。ようやく。
同級生は子供のお受験対策に頭を悩ませてるのに。すげー!

ただやっぱり、それなりにいい働きをしてもそこそこしか評価されない会社とか世の中とかはしんどいし、人並み以上に働いたらカフェの店員でも時給2000円くらいもらっていいと思うんですよ。
現代社会はそうじゃないからやっぱりあんまりたくさん働くのはやだなー!ってところにいます。
せめてチップとかほしいですね。日本でも導入するべきだと思い続けてるんですけど、えらい人たちどうですか。

成果や対価、報酬、達成感は中毒性があるからブラック企業とかがはびこるしDVとかも起こるけど、そのへんのためには勉強して知識をつけるとかワクワクを売る側になるとか、そういうのが必要になってきますね。
あとは資本主義に殺されない心も手に入れなくてはいけない。
労働に振り回されたくないよー!日銭を稼ぐのに精一杯にはなりたくないよー!生きるってたいへん!
と、プロレタリアらしい言葉でさようなら。

おわり

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