マイホームとシンデレラ城――宮部みゆき『火車』『理由』考

(初出:e-NOVELS、2000年。注:2作の後半の展開に触れています)


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  宮部みゆきの『理由』(1998年。直木賞受賞)では、高級マンションの一室で一家四人殺害事件が起きる。小説の進行上、その部屋の異変を最も早く知るのは、同じ階の住人である葛西美枝子だ。

  私は、この「葛西」という苗字が気になってしかたがなかった。なぜ「笠井」や「香西」ではなく「葛西」なのか? べつに「葛西」は特に奇矯な苗字ではないし、他の登場人物の命名に比べて浮き上がっていることはない。でも、読者の中には、『火車』(92年)にも「葛西」という名称が出てきたことを覚えている人もいるだろう。『火車』と『理由』はともにローン破産を題材にしており、宮部の社会派的側面を代表する作品として並べて語られるのが通例である。『火車』では、休職中の刑事・本間が甥の失踪した婚約者・関根彰子を探すうちに、彼女がクレジットカードの債務超過で自己破産していたことが判明する。栃木県宇都宮市出身の関根彰子は、東京都で就職した後にクレジットカードを作った。彼女が最初に務めたのは「葛西通商」というパッとしない会社だった。「葛西」は江戸川区に存在する地名で、関根彰子は「葛西南町」(現実の南葛西に相当するのだろうか)にある社員寮に住んでいたという。関根彰子の転落の起点は「葛西」にあり、同系列の社会的テーマを扱った『理由』に再び「葛西」の文字が出てくるのは、なにか含みがあるのではないか――。

  そんなこと言ったって、『理由』の殺人事件が起きるのは「ヴァンダール千住北ニューシティ」という荒川区のマンションだ。ただの証人にすぎない端役の苗字が江戸川区の地名でも関係ないだろう。だいたい『火車』の「葛西通商」だって、関根彰子の生活史の一通過点でしかない。各地を飛び回って展開する『火車』や『理由』の中で、とりたてて象徴的に書かれているとも思えない枝葉の「葛西」に意味などあるものか。

  ――そのような疑念を抱く方もいらっしゃるだろう。しかし、少し待って欲しい。「葛西」という文字が作中でどのような位置に置かれていたかを読むと、『火車』や『理由』で登場人物がはまった落とし穴の形がみえてくるのだ。

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