許された特別な時間の引き延ばしーー長嶋有『ねたあとに』

(2009年 記)

 ひょっとすると、あなたは勘違いするかもしれない。長嶋有『ねたあとに』はミステリーなのではないか、と。本の最初には建物内部の図面がついている。図には足あとまで描かれている。ミステリーではよく見る類のものだ。ここが事件現場で、犯人の侵入経路はこれだな。そう先入観を持って読み出せば、いかにもな状況である。作家コモローと父ヤツオは、猛暑の都会から逃れ山荘にやってきた。そこには毎夏、友人たちも集まり、楽しく過ごしている。ただ、山荘では携帯電話は基本的に圏外であり、特定の場所以外つながらない。また、インターネット接続はアナログ回線。山荘では、テレビは映るもののメディア利用に制約がある。
 そうか、やがて嵐が来て外部との交通・通信手段が絶たれ、孤立した山荘で連続殺人が発生するのだ。互いを犯人ではないかと疑いながら、寝た後にきっと誰かが殺される! ――これがミステリーのお約束ってものだが、本書ではそんな事件は一切起こらない。出来事と呼べることすらほぼ起きない。山荘の人々は、ローテクな遊びに興じるばかりだ。
 麻雀牌を馬に見立てた「ケイバ」。名前や癖などを書き、サイコロで人のプロフィールを作る「顔」。質問の一部を隠したまま答えさせ、問答のすれ違いを笑う「それはなんでしょう」。手作り感のある遊びばかり出てくる。コモローはブログなんて今風なこともしているが、内容は山荘に現れた虫を撮ったもの。通称「ムシバム」。ネットというそれなりにハイテクな場で、昔ながらの昆虫採集をやっている。そうしたアナログ感覚の遊びの数々がなんとも楽しい。『ねたあとに』の題名は、自分が寝た後に他のみんながなにか楽しいことをしているのではないかという疑いに由来する。どうせたいしたことはなかろうが、自分の知らない楽しさを味わったのだろうというような、微妙なレベルの楽しさをかき集め延々と語ったのがこの長編である。気持ち良すぎて出るのが嫌になる、ぬるま湯の風呂みたいだ。
 作中で唯一、出来事らしい出来事なのは、コモローの「オーエ賞」受賞である。これには長嶋有本人が、大江健三郎賞の第一回受賞者となったことが反映されている。『ねたあとに』は受賞後、朝日新聞に連載され、その最中、第二回大江賞が岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』に決定した。深読みすぎるかもしれないが、『ねたあとに』の「軍人将棋」の章が、岡田の受賞決定後に発表された点は興味深い。中編二作を収めた岡田の本のうち一作は「三月の5日間」だった。同作は、米軍がイラク空爆を開始した五日間に、ニュースを知っており戦争関連のパフォーマンスも見た男女が渋谷のホテルにこもり、繰り返しセックスする話。二人は滞在中、一度もテレビを見ない。岡田はその設定によって、一種の戦争小説を書いたわけだ。
 一方、長嶋は「軍人将棋」を終えたコモローに「本物の戦争ってイヤだろうねえ」と呟かせる。また、ディテールの書き込みに味がある『ねたあとに』では、テレビをつけている場面(それもニュース)が多いが、天気予報や高校野球くらいにしか言及しない。殺人事件や戦争のニュースもあったはずだが、そちらは語られない。ニュース満載の新聞に本作が連載されたことを思えば、これは意図的だろう。だが、『ねたあとに』もそうすることで逆に戦争小説になっているのだ、と声高に主張するのはためらわれる。情報化されたハイテク時代の戦争はテレビゲームのようだといわれるが、長嶋の持ち出す「軍人将棋」は、笑ってしまうほど古めかしい遊びだ。しかも、「軍人将棋」の次には読む側が脱力する「ダジャレしりとり」に移って小説は終わる。いかにもテーマを設定しました的な岡田作品に比べ、長嶋作品はテーマの有無をはぐらかしている印象がある。とはいえ、むしろこのぬるま湯の方が、私たちの現実により近いのではないか。だから疑うのだ。『ねたあとに』は、本当に楽しいだけの小説なのだろうか、と。

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