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(59) K-A氏(桑島アボジの心意気)

 敬愛する桑島実先生、お父さん (=アボジ)と呼ばせてください。先生は体躯堂々、口元に黒々とたくわえられた髭、内に巌とした信念を持ちながら、外は温顔にして洒脱。桑島アボジと呼びかけると、そのお姿がまざまざと蘇ってくる。

私は昭和18年3月、兵役現役満期で満州から鎮南浦の理研金属工場に復職。出社してみると、工場はすっかり様変りして、敷地一杯に電炉工場、電解工場などが建ち並んでいたばかりか「昭和電工」に経営委託されていて、旧知の尾間先生や桑鶴次長も辞められていた。

桑鶴先生は鎮南浦に骨を埋める決意をされ、近郊で必需品の「朝鮮釜」製造を始められていた。終戦後の11月頃、私はソ連軍ボロジェンコの使役に出ていたが、ある理研の青年からこんな話を聞かされた

「10月のある日の夕方、桑鶴アボジが理研金属の鹿児島出身者14,5名を自宅に呼ばれて『君達は、私が君たちの親御さんから預かって、この鎮南浦に連れて来た。親御さんに1人残らずお返しする義務がある。ここから全員母国へ向かって、発って行くのを見届けるまでは、私はここに残っているから』と言われ、奥さんの手料理をご馳走になった」と。

鹿児島出身の彼らは感動し、結束して、桑島勤労組合委員長の下で、鎮南浦の全員脱出成るまで、勤労者として尽された。

日本人組合事務所が設立された頃、私は桑鶴アボジに呼ばれ「君を見込んで、ソ軍使役の集金と組合の金庫番を頼みたい」と言われた。ある日、日本人使役最高責任者のボロジェンコ中尉が血相変えて、組合事務所に怒鳴りこんできた。「お前らにはもうミカドはいない。オレの命令に従え」とわめき散らした。桑鶴先生は通訳を交え、彼と掛け合い、ボロジェンコはいつしか柔和な顔になり、先生と握手して「ズナイチェ、ハラショ(わかった、よろしい)」と機嫌良く帰って行った。使役現場の班長が、ソ連軍司政官の認可を 受けた労働組合として「賃上げ要求」したのを、ボロジェンコは「使役の人数を減らした」と思い違いして怒ったのらしい。先生の腹芸は大したものだと思った。

9月17日の脱出再開の時、埠頭で乗船中止をわめくソ連軍司令官を説得したのも、桑鶴先生であった。それでも、千人あまりが乗船出来ず、取り残されたが。

9月30日で全員脱出完了し、11月の残留勤労者もほぼ全員、正式帰還となり、この時、私は先生や横瀬日本人会会長と同じ車両だった。ある夜、ゴトゴト走る貨車の中で、1本のローソクの灯を囲んで談笑した。先生はつと立ち上がり、青春時代、アメリカの大学にいた頃、思いを寄せていたアメリカ娘から教わったラブソングを、流暢な英語で歌われた。先生は座興の名人でもあった。

先生は故郷の鹿児島に帰られ、まもなく谷山町の町長となり、その後現職中に亡くなられるまで、無投票で町長に再選されるなど、町民に親しまれ信頼されて、ご活躍されたそうだ。

桑島実先生、もう一度だけ、桑鶴アボジと呼ばせてください。噫。

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