遠藤みえ子

東京女子大英米文学科卒。高校教員33年間、恵泉女子短大と東京女子大計17年非常勤講師。…

遠藤みえ子

東京女子大英米文学科卒。高校教員33年間、恵泉女子短大と東京女子大計17年非常勤講師。日本児童文学者協会会員。『やなぎ通りのスージーさん』『あじさい寮物語三部作』『1945年鎮南浦の冬を越えて』は、日本語版、英訳版の二冊が米国議会図書館に2020年所蔵さる。他十数冊と翻訳書有り。

マガジン

  • 合閒のひと休み

    短編や長編の小説の合閒に、ちょっと目についた面白い場面を拾ってみました。楽しんで下さったら嬉しいです。

  • コロスケ探偵団

    10歳の男の子たちのある1日を描いてみました。ママたちはお勉強で、隣同士の2人で留守番のはずが、とんでもないことに!

  • スウェーデンへの旅 1999年9月

    夫の数学者仲間のロシア人、フレニコフ氏に招かれ、彼の勤務先のスウェーデン、ヴェクショー大学で寮生活を2週間ほど体験することになった。北欧の季節、暮らしぶり、人々との交流など、印象を思いつくままに。

  • イギリス時の旅 ー物語の舞台を訪ねてー

    「おはなし」を覚えて語る仲間たち16名で、イギリス児童文学の作品を勉強した上で、作品の舞台を訪ねる旅をしてきました。伝統とイギリスらしさを味わえて楽しい旅でした。

  • 香織の試練(2)ーあじさい寮物語別伝ー

    母・姉の出身有名校に、補欠以下で辛うじて入学、入寮できた香織は、苦労の連続の中、小さな趣味を特技と学園長に認められ、夏休み中に製作を頼まれる。2学期にその特技が波紋を起こすことに・・。ルームメート、クラスメートにボーイフレンドに支えられて・・。

最近の記事

●アンソニー・バビントンの陰謀のこと

ここ数日胃も痛むし、休筆するつもりだが、気になる現象の謎が知りたく なった。7ヶ月前に載せた私の『アンソニー・バビントンの陰謀』の記事を、ぶん bun_zuka さんが X に呟いてくれたせいなのか、このところ日ごとにスキが増え続けているのだ。 彼女の X でのつぶやきはこうだった:「みちる&あみちゃんの姉妹があんなに闇落ち復讐マンになるのもわかる。メアリー・スチュワート時代のご先祖さまのお話であった」とだけあり、その下に私の『イギリス〈時の旅〉ー物語の舞台を訪ねて』3章

    • ●着物のことなど

      このところ着物にこり出した孫娘に、男物の羽織か何かない?と聞かれて、桐箱に収めている夫の着物を取り出してみた。羽織はなく、半纏みたいだった。着物を着るのはお正月頃で、夏は浴衣だから、ゆかたに羽織は不要なのだ。 数着しかないのを取り出しているうちに、これは手放したくない、とふいに思った男物長襦袢が見つかった。裏付きの絹?らしいチャコールグレイというか、紺色に近い、微妙な色合いに、縦筋が入り、一部が欠けた円形の中にウメの花が5~7個、連なっている。亡き姑が縫ったもので、袖口の始

      • ●良い事づくし

        5時半に目覚めて、暗い部屋を見まわすと、ふすまの隙間から明かりが見えた。えっ!おねえさん、もう起きてるの?今朝こそ私が朝食の用意をしなくては、と夕べは早めに床についたのに。寝間着のまま大急ぎで、ふすまを開けると、なあんだ、台所の明かりではなく、外の朝の光が窓を通して、ホールも台所も明るくなっていただけだった。姉はやっぱり熱のために、起きられなかったんだ。 それで、すぐに湯を沸かすよう、ガスをつける。それから落着いて着がえを始めていたら、姉が2階から下りてきた。「あ、おねえさ

        • ●雨のち晴れ、とはいかず?

          朝4時頃目覚めたら酷い雨の音。雨合羽着て、傘さしてゴム手袋はめて、外に置き去りにしておいた花鉢5個を、物置に入れてきて安堵。残りの8鉢は物置で無事だった。その後も雨はドンドン酷くなってきて、今日9日の11時半の約束の病院行きは断る決心をした。 朝食をすませ、朝ドラを見た後、眠くてたまらず眠ってしまったら、目覚めたのが10時35分。急いで病院へTELを入れ、看護師に「9ミリ管はやる気ないので、今日の面談を取り消す」と頼んだが、看護師は医師に問い合わせた後、やっぱり来て下さい、と

        ●アンソニー・バビントンの陰謀のこと

        マガジン

        • 合閒のひと休み
          78本
        • コロスケ探偵団
          27本
        • スウェーデンへの旅 1999年9月
          47本
        • イギリス時の旅 ー物語の舞台を訪ねてー
          43本
        • 香織の試練(2)ーあじさい寮物語別伝ー
          50本
        • ○○○ごっこ
          35本

        記事

          ●マーカーが高い!

          1週間前にうけた腹部超音波の結果を、昨日知らされた。すい臓ガンになるかもしれない、と言われて半年ごとに検査して貰っている小さなポリープ部分は、変わりなく問題ないが、「マーカーが高いですね。早めに検査の予約を入れましょう」と女先生に言われた。マーカーって何?高いとは、ガンか何かがひっかかるのかな、と思えた。 数値は37とか47とか言われた気がする。検査日をすぐに24日と決めてくれて「上部内視鏡検査のご案内」という印刷物をもらって帰った。3枚の紙の最後の「説明・同意書」の細かい

          ●マーカーが高い!

          ●3回忌の賑やかさ!

          7日日曜日、親族5家族も加わり、15人が車で夫の眠る墓地へ。道中も 墓地もサクラの花盛り。快晴で暑すぎるほどの上天気。 無宗教で行なった葬儀に合わせて、法要も坊様の読経は無し。皆で草取りをし、丁寧に墓誌や墓石を濡れ手ぬぐいできれいにする。 順にお線香を上げて、両手を合わせ、それぞれに黙祷して、後かたづけを して、お参りはおしまい。 私は夫の名前が刻まれた墓誌を見ながら、あの続きに私の名前が刻まれる のね、と呟くと、甥のKが「そりゃ、伯母ちゃんの方が先だよ。来年90 だし」と

          ●3回忌の賑やかさ!

          ●ボーイフレンドの助け

          H不動産のM氏からの電話があったので、私はうちの敷地の裏手門外にある「1平方メートルの土地問題」に、いよいよ取りかかれるのだと、ニコニコし始めた。この狭い土地が、亡きO氏の所有のままになっているため、私宅で彼から買った65坪ほどの裏庭は「原野」の部類とされ、畑にしていた。ところが、M氏は「この問題から手を引きます」と冒頭から言い始めた。 「書類を調べて見たら、あなたにはその1平方メートルの土地を買う資格はありませんね」 「えっ、そんなはずはありません。一昨年の夫の死後、土地

          ●ボーイフレンドの助け

          ● 教員若夫婦の新学期

          小学校教員のY夫妻は、妻のMが2年間の産休を終え、4月から元の学校に復帰することになり、夫の方は、6年目の転勤となって、今までより近場の小学校に移ることになった。2歳になる息子は、近くの保育園が決まり、機嫌の良い健康な子なので、登園そのものは問題ないのだが、4月8日の大事な始業式・入学式の日は、夫婦そろって6時半には出かけなくては、職場に間に合わない。息子の登園時間は8時半だ。 そこで幼児の祖母が、栄養士として勤務している会社の有給休暇を1日取って、朝の6時前から助けに行く

          ● 教員若夫婦の新学期

          ●質の良い目とは?

          半年に1度、眼科の定期検診を受けるようになったのは、「緑内障になる気配がある」と最初に言われた頃から、もう6年目になるが、今回も眼科医に「変わりませんね。あなたはほんとに目の質が良いのですねえ」と、こう言われたのは2度目だ。「メガネをかけて1.5と1.2見えてるし、白内障は大丈夫、緑内障も気にしていた部分が、何も変わりないですね」 「でも、先生、1月から3月初めまでめちゃくちゃたくさん本を読んでたんです。200~300ページ以上のを何十冊も読まなきゃならなくて・・」 昨年秋

          ●質の良い目とは?

          片っぽなくした! 

          夕食の準備をほとんど終わりかけて、最後に野菜炒めを作っていたら、義姉が台所に立ってきた。夕食は私の当番なのだが、最後に 2人のご飯をよそる頃には、茶の間から出て来て、手伝ってくれるのだ。その時、ふっとつぶやくみたいに、姉が言った 「補聴器を片っぽ、なくしてしまった。すごく探したんだけど、見つからなかった」 「えっ、お姉さん、あれ、60万もした補聴器でしょ? 私が探してくるわ」 と、菜箸を置いて、外へ向かおうとしたら、姉は止めた。 「むりよ、今日は草取りをして、土の付いた草の山

          片っぽなくした! 

          ラジオ体操の思い出

          朝のラジオ体操だけは、Eテレの番組に合わせて、なるべく毎朝続けようと努力している。時々寝坊してやり損ねたり、パソコンでnoteに載せるものを書いている途中で、体操は諦めることもある。実行できた日は、5年日記の毎日の初めに「ラ」の文字を入れておく。その日を数えてみたら、今年の 1月は19日、2月も19日、3月は18日やっていたことがわかった。 「ラジオ体操第一」をやっているときに、10番目の「両脚を開いて、両腕と腰をぐるっと左右に回す」場面に来ると、私の頭の中に、必ずK先生の

          ラジオ体操の思い出

          思いつくままに・現状

          4月2日 昨日は東海大八王子病院での、半年に一度の通院日で〈上腹部超音波検査〉に出かけたが、バスで八王子駅に着いた時点で、急に胸が苦しく息苦しく、身動きもしずらいのを、なんとかエレベーターまで辿り着き、2階の通路まで行き、しばらく手すりによりかかっていた。マスクははずし、胸を広げ息を深くしてみたり、ハアハアしてみても、気持ち悪さはおさまらない。水を飲んだらどうなるだろうと思いながら、やっとリュックの脇ポケットからポットをとりだして、ゆっくり少しずつ飲んでみた。いくらか胸苦しさ

          思いつくままに・現状

          (61) 終わりに

          80名余りの方々の体験や思いを記するにつれ、私の『風さわぐ北のまちから』の体験はなんと運のよい恵まれたものであったか、と痛感させられた。戦争の非道さと戦後の悲惨、残酷さの一部を載せただけだが、これほどまで酷かったのかと、思われる場面が多かった。一方で、戦前、戦中も、朝鮮の人達を同等の人間同士として、隔てなく交友し懇意にしていた日本人達は、戦後の混乱期にも、救いの手を延べて貰ったり、食事に招かれたり、引揚げの道中の道端で、食べ物や手土産を持って、再会を待っていてくれた場面もあっ

          (61) 終わりに

          (60)松原寛氏(陰の人々に助けられ)

          ◆日本鉱業鎮南浦製錬所に、35歳で着任した若手中堅社員であった松原氏が、翌年36歳で、鎮南浦日本人会会長に推され、以後、紆余曲折を経ながら、在住、満疎合わせて1万6千人の人々を引揚げ帰国させ、帰国後も政府との交渉を続け、引揚げに要した費用全額を国から認められ、借金返済を完了させた。そして40年後、70代半ば過ぎ『よみがえる鎮南浦-鎮南浦終戦の記録』を日本人会仲間たちと編纂し仕上げた。この貴重な大著に「はじめに」と「思い出の記」を寄せている。その一部を紹介したい。 製錬所の日

          (60)松原寛氏(陰の人々に助けられ)

          (59) K-A氏(桑島アボジの心意気)

          敬愛する桑島実先生、お父さん (=アボジ)と呼ばせてください。先生は体躯堂々、口元に黒々とたくわえられた髭、内に巌とした信念を持ちながら、外は温顔にして洒脱。桑島アボジと呼びかけると、そのお姿がまざまざと蘇ってくる。 私は昭和18年3月、兵役現役満期で満州から鎮南浦の理研金属工場に復職。出社してみると、工場はすっかり様変りして、敷地一杯に電炉工場、電解工場などが建ち並んでいたばかりか「昭和電工」に経営委託されていて、旧知の尾間先生や桑鶴次長も辞められていた。 桑鶴先生は

          (59) K-A氏(桑島アボジの心意気)

          (58) S-H氏(敗戦日から引揚げまで[5])

          9月12日夜になり、載寧署長は三江から載寧までの「道路工事」を終えたら、出発許可すると言うが、要求に応じられないため、1人10円ずつ出し合iい評諾して貰った。翌朝の出発が許可された。 9月13日 鎮南浦団体は「銀波里コース」満州、平壌団体は「鶴県コース」と決まった。 連絡員を2名ずつ道案内にして、三江を出発し、団体の38度線越境を見届けて、1名は報告に引き返すことにしてあったが、戻らないので、待機中の安青年に調べさせると、両団全員無事に越境したとのこと。私の妻子と妹一家の

          (58) S-H氏(敗戦日から引揚げまで[5])