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(58) S-H氏(敗戦日から引揚げまで[5])

9月12日夜になり、載寧署長は三江から載寧までの「道路工事」を終えたら、出発許可すると言うが、要求に応じられないため、1人10円ずつ出し合iい評諾して貰った。翌朝の出発が許可された。

9月13日 鎮南浦団体は「銀波里コース」満州、平壌団体は「鶴県コース」と決まった。

連絡員を2名ずつ道案内にして、三江を出発し、団体の38度線越境を見届けて、1名は報告に引き返すことにしてあったが、戻らないので、待機中の安青年に調べさせると、両団全員無事に越境したとのこと。私の妻子と妹一家の12名は鎮南浦団体の中にいて、安堵した。(7月13日に別れて以来の久しぶりの再会だった。7月13日の折は、公務多忙で会話もできず、特に3女怜子が39度の発熱中であり、三江広場の青天井の下で、夜露に濡れながら娘を看病していた妻子の姿が、哀れでならなかったが}

9月17日 第2回団体の病人団体が三江に到着。この時も一計を案じて、知らぬ間に到着、上陸を終えた後で、保安所長に報告すると、載寧所長が武装警官20名とシープ3台で急行してきた。船はすでに鎮南浦へ戻り、上陸者は病人がほどんどで今回も金銭拠出をと、私が粘りに粘って夜10時まで所長に願い、載寧署長の電話での許可をもらって、皆の金を集めた。不足分は手持ちの金を加え、支払い、倉庫片付け賃として2000円も添えた。

その足で三江駅長宅を訪れ、明朝、列車で出発できるようお願いしてから、本部へ戻った。実は、以前から千葉医師が沙里院へ置いて帰国した医療薬品を三江へ持って来て、毎日駅へ行き、簡単な外科治療をしてやって、駅長始め駅員と心安くなっていたのだ。

9月18日、駅長室へ伺うと、本日昼頃、出発可能とのこと。10時に駅前広場へ皆を集め、午後2時全員無事乗車して鶴県へ向けて発車。どうか全員無事に故郷の土が踏めるよう、合掌した。

10月3日 第3回湯浅団が、海兵隊司令官の指揮する引き船2隻と荷船7隻で三江に到着。今回は文句なしに載寧署長も身体検査、所持品検査と、金銭での取り引きで、倉庫と広場へ分宿させた。私はそれ以前に、沙里院まで歩いて、ソ軍司令官から、満疎の5名の婦人を三江へ送り届けてほしいと頼みに行き、快諾され、ご馳走になって帰り、湯浅団を待っていたのだ。

湯浅氏によると、これが鎮南浦引揚げは最後で、強制労務者が300名余りが残っている。現地駐在員の私達も、この団に加わって帰国してはどうかと言われ、私達4人は湯浅団と共に引揚げることにして、安保安所長宅へ報告挨拶に行くと、所員を集め、所長宅で焼酎と焼き肉で送別会をしてくれた。

午前2時頃本部へ戻ると、皆が心配して待っていて、小宴のこと、朝鮮側の厚意のことを報告すると、湯浅団長が品物でお礼をしようと言い出し、ありったけの高級品、時計、オーバー、メガネ、腕時計、純毛シャツなどを、所長や駅長などに記念品として贈り、青年団や婦人会へ5000円、駅へ7000円をお礼として進呈した。

翌日、貨車17輛、客車1輛に全員乗せ、機関車3台で輸送するとのこと。正午に三江駅に集合。持ち物検査をすませ、午後4時、団員3800余名を、私たち4人で世話して全員を列車に分乗させた。駅長の配慮で、鶴県警備隊隊長と部下3名が引率して同行してくれた。駅頭にお世話になった全ての人達、あの載寧所長と部下達の見送りを受けて、10月4日午後5時三江駅を発車した。

10月6日午後に目的地に到着、越境は目前だ。警備隊本部へ交渉後、警備隊が来て、上等巻き脚絆3組、上等シャツ3枚供出すれば、午後7時の出発を許すという。鎮南浦出発以来5カ所の検査で没収され尽しているため、だれも出せない。私の着替え用の1枚と、使用中の巻き脚絆を外して供出。それを見た4名の方が供出してくれて、7時出発できた。

皆無我夢中で走るようにして前進、全員が38度線を越えた。開城テント村は、一度に3800名も受け入れできず、3回に分けて青丹を出発し、私は最後の班となった。

テント村で湯浅団は解散となり、私は1年3ヶ月ぶりでフリーの身となったが、すぐに釜山から引揚げ船に乗り、内地に着くまでの責任者とされ、団長となった。

予定通り10月19日 1520 名が興安丸に第1大隊として乗船。続いて新義州団体が第2大隊 2400 が乗船、釜山から博多へ向かい、20日午前 10 時祖国へ帰着、涙がとめどもなく流れた。検疫が済むまでの間、演芸会などやって楽しんだが。私は米軍将校2名に呼び出され、2時間にわたって「ソ軍、鮮人の状況、鎮南浦岸壁の様子、ソ軍進駐軍の様子、大同江水深、諸設備など」について問われ、語り終えると調書に署名とサインを求められた。  [◆後に南北の朝鮮戦争となった時に、この調書が参考になったのでは、と 私には思えた]

博多より、名古屋へ、そしてふるさとの小野浦へ帰り着いたのは、昭和21年10月27日11時30分であった。

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