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2-(2) 岡田のおっちゃん

となりの岡田のおっちゃんという人は、マリ子には〈なぞの人〉だった。 マリ子とおなじ川上家の貸し家に住んでいるが、親切どころかまったく愛想なしの人だ。

年はいくつなのか、見当もつかない。50前後か、ひょっとして60?  それに何屋さんなのか、わけがわからなかった。たしかなのは、午後3時を過ぎると、紙芝居屋に早変わりすることだ。これは1年中やっているらしく、帯野村を順にまわって、最後に西浦にもどってくる。

夕方、寺の階段が紙芝居の見物席になる。マリ子はぜったいに見逃さずに 前の席にすわり、水あめをなめながら『黄金バット』のおそろしいガイコツ顔を見つめた。おっちゃんのしゃがれ声が効果満点で、ふるえてしまうのだが、それが楽しみなのだった。

紙芝居のほかにも、おっちゃんは映画の映写技師になったり、くず屋さんになってリヤカーを引いていたり、農家にやとわれて草取りをしていたり、 マリ子がふと目をはなすと、ちがう仕事をしているのだった。

ちなみにお兄ちゃんの自転車は、おっちゃんがくず屋をしているときに、  ゆずってもらったものだ。

加奈子の話では、おっちゃんは夏になると、アイスキャンデー屋になって、村中を自転車でまわったり、おまつりのある神社に現れるのだそうだ。

おっちゃんについて何より奇妙なのは、こどもを相手に商売している人なのに、ほとんど笑ったことがないということだった。

それから、おっちゃんはいつも首に白い包帯のようなものを巻いていて、 その下に何かの秘密をかくしているようだった。

ときどきマリ子は、おっちゃんに聞きたくてたまらなくなる。でも、できない。なぜかそれはふれてはいけないもの、という雰囲気があった。

それに、ぎろっと光るおっちゃんの大きな黒い目と、ひたいの深いしわと、ぎゅっと結んだ口元を見たら、さすがのマリ子にも、気楽に話しかけられるものではなかった。

おっちゃんは太ったおばさんと、りっぱな犬といっしょにくらしていた。

そのおっちゃんがある日、紙芝居がおわって、みんなが正太の新しい自転車にむらがっていた時、わりこんできて、ひょいとその自転車に飛び乗った。

それから、おっちゃんがにこりともせずにやってみせた曲乗りに、みんなはどぎもをぬかれた。マリ子は、おっちゃんサーカスにいたのかな、と見つめてしまった。

まず〈両手ばなし〉でさっとためし乗りして、お次はサドルの上に腹ばいに乗る〈水平乗り〉。そして前輪を持ち上げて後輪だけで進んだり、向きを変えたりする〈一輪乗り〉。それから後ろ向きに走らせる〈逆さ乗り〉・・。自転車をほとんど動かさずに、バランスを取りながら、みごとにやってのけた。

終わった時、みんながうおおお!とおどろきのさけび声を上げた。おっちゃんは表情も変えずしかめ顔のまま、自分の古い紙芝居自転車を引いて帰って行った。

マリ子は、ようし、いつかあたしも、とそのとき、固く決心したのだった。

今こそチャンスだった。あたりには人影はない、お兄ちゃんもいない。  マリ子は寺の階段の下のまっすぐな下り坂で、ハンドルから両手を少し  はなしてみた。  

わ、走ってる!ペダルを6回まわしたところで、左のたんぼにつっこみそうになって、あわててハンドルをにぎった。でも、できそう! ふるえる気分だけど、たまらない緊張感だ。
マリ子は夢中になった。

だんだんわかってきた。直線コースでスピードを上げて車体を安定させ、 それから手をはなせば、らくに進むのだ。

川ぞいの道で両手ばなしをするのは、スリル満点だった。一歩まちがえば、川に飛びこんでしまう。川に落ちる寸前でぐいとハンドルの向きを変える、その時のドキドキで、マリ子の顔は赤くなっていた。

坂道を下るときは身が軽くなって、空を飛んでいるような、風に乗っているような、まるで天女になった気がした。マリ子はもう有頂天だった。

そうしてぐるぐる巡回しているうちに、どんどん自信がついて、両手ばなしなら、もういつだってできるぞ!

次は〈一輪乗り〉に挑戦だ!

岡田のおっちゃんがやっていたように、うしろの荷台に腰を移してみた。ハンドルが遠くなって、両腕をつっぱっていなくてはならない。ふふふ、変なかっこう!

だれかに見られていないか、見渡してみた。竹次さんらしい後ろ姿が、東のたんぼのあぜ道で草刈りをしているのだけが見えた。

マリ子はおなかをできるだけサドルにくっつけて、ペダルをふみつづけた。直角の曲がり角では、ぐらぐらしたが、すぐに慣れて平気になった。

でも、前輪を持ち上げて、後輪だけで立つなんて、とんでもなかった。ハンドルを持ち上げようにも、マリ子の力ではびくともしない重さだった。

もう少しで西浦の山すその道へ出るという上り坂で、マリ子は疲れてもう ペダルを回せない気がした。下りて自転車を押すことにして、マリ子はあわてた。まるで自転車に体がぬいつけられたように、はなれないのだ。ひっぱってもゆすっても、だめ。倒れないためには、ひっしでペダルをこぐしかなかった。

やっと坂を上って、たいら道に出たときは、汗ぐっしょりだった。それから、どうしてなのか体を引いて、原因をさぐってみた。スカートがサドルの下のスプリング (ばね) に巻きこまれて、食い込んでいた。

マリ子は荷台に座った奇妙なかっこうのまま、下りるに下りられず、乗り  続けているしかなかった。

いつものズボンにしとけばよかった。スカートをはいて、おかあさんを喜ばせようと考えたのがまちがいだった。どうしよう、どうしよう!

なんとかして、自転車から降りなくては・・。マリ子はあれこれ迷ったあげく、自転車を大クスノキのある地蔵様の方へ向けた。

道ぞいの竹やぶをこえると、左に一段高い畑が続いていて、その下の土手は、やわらかい土と草でおおわれていた。

マリ子はそこへ近づくと、覚悟をきめて、自転車もろとも土手の斜面にたおれこんだ。

ガチャーン! いてっ! 左足に痛みが走った。すりむいたらしい。でも、とにかく、やれやれだ。ここで下りなければ、先へ進んでも、寺の方へもどるにしても、長い下り坂が待ち受けていて、たいへんなスピードで走り続けなければならなかったのだから。

自転車はまだマリ子にくっついたままだった。思いっきりひっぱると、  
びりっと音がして、ほんの少しゆるんだ。

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