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(61) 終わりに

80名余りの方々の体験や思いを記するにつれ、私の『風さわぐ北のまちから』の体験はなんと運のよい恵まれたものであったか、と痛感させられた。戦争の非道さと戦後の悲惨、残酷さの一部を載せただけだが、これほどまで酷かったのかと、思われる場面が多かった。一方で、戦前、戦中も、朝鮮の人達を同等の人間同士として、隔てなく交友し懇意にしていた日本人達は、戦後の混乱期にも、救いの手を延べて貰ったり、食事に招かれたり、引揚げの道中の道端で、食べ物や手土産を持って、再会を待っていてくれた場面もあった。どんな時代にあっても、人としての有りようを教えてくれる場面だった。

特に激しい衝撃を受けたのは、(9)と(50)のS-Fさんの証言だった。終戦時19歳の彼女は、9月のソ連兵到着以来、髪を切り屋根裏部屋に潜んで、食事も排便も家族の助けで2、3ヶ月屋根裏暮らしを続けた。階下に 下りることにしたのは、姉が女児を産み、死去したため、赤子を姉の代わりに育てるためだった。彼女は女学校で、女達は「自ら命を絶つこと」を教えられ「首のくくり方」「頸動脈の切り方」を教わり、「青酸カリ」を持っている人もいた、という教育を受けていたので、自らの命を守ろうとしたのだ。クラスの3分の1が帰国してなく、ソ連兵の被害にあって死んだ人もいたし、引揚げ途中でも、女を出せと要求されたという。

男性達は奴隷のように、荷運びや道路補修の力仕事を一年以上続けさせられ、13~15歳で、60キロや80キロの米俵を担がされたり (1) 〇-I氏のように、引揚げ途中に、歩けなくなった老人を洞窟へ背負って、置き去りにする仕事をさせられたりもしている。10代後半から20代、30代の女性達は、ソ連兵達の暴力と性欲の犠牲にされる人が多かった。

そして (51) C-Yさんは9歳の身で、身重の母が飢餓のため死産し、母自身も亡くなり、雪の中、山で穴を掘って母を埋めたが、涙も出なかったという話に、子供3人で残された彼女はその後、弟妹の面倒を見ながらの引揚げが、どれほど大変であったかと、胸が詰まり、涙で書き進められなかった。

(51) K-I氏は、当時2歳以下の子供と65歳以上は90%以上は死んだと証言している。母は38歳で性暴力にあい、5人の子を連れ新京まで逃げたが、着物を売って食べ物を買っては子に与え、母は骨皮に痩せて39歳で死んだ。母の写真を靴底に隠して持ち帰った。

(52) M-N氏の「負けてはならない」という言葉も衝撃だった。それに続く「戦争は絶体に仕掛けてはならない。仕掛けられた戦争には、絶体に負けてはならない、このことを敗戦で学んだ。有史以来、満州と北朝鮮で敗戦を迎えた日本人こそ、本当の敗戦の悲惨さを体験した数少ない日本人と確信している。個人の身体と財産と自由の一切を奪われ、国家にも隣人にも頼るべき力はすでになく、己の無力の極限を認識させられ、屈辱と忍従の中にのみ生きることになった」という言葉に、説得させられた。

このような悲惨と屈辱から抜け出すべく、鎮南浦日本人会は1年目の越冬をする間に、知恵と粘りと組織力、団結力、実行力で、ソ連側と北朝鮮側とに陳情を続け、一方で帰るルートを探し続け、最終行路を決めて、決行するが一気に3800人を超えると、別れて移動するほかなく (34)-(38) の武本仁平氏のように、最悪の行路を引き受け、道中他の地区から逃亡中の人々も加えて初めの倍以上の3000人余を率いて、崖を上り下りする。謡曲の「楠の露」を朗詠し、皆と共に涙する。豪胆で、毅然とした態度、そしてひとり心に謡を吟じて自らを慰めながら、子供や老女たちに目を配りつつ率いていく姿に、深く感銘、心動かされた。

もうひとりの (54)-(58) の樋口昇平氏にも、武本氏と共通して、あちこちで 戦前から知遇の友人達が朝鮮の人達にもいて、顔なじみに助けられ、新しく友人になってもいる。日本人ゆえ汽車に乗れないなら、列車の屋根に登ろうとして、駅長に咎められるが、身分証明書のお蔭で客車に乗せてもらえたのも、豪胆さ、磊落な人柄が見えて、頼もしかった。

また100人ほどで脱出をした (46)-(48) のK-M氏の体験も印象に強く残った。朝鮮人達に山賊のように物品を盗られるが、闇の中で出くわした老人が、  黙って自分の荷車ひかせた牛を小屋から出し「子供らを乗せ、山を越えたら、牛の尻をたたけ、戻ってくる」と言ってくれる。この時の団長の名前は不明だが、38度線を越える直前の、ソ連側の探照灯を潜り抜ける場面の、団長の周到さと、全員が紐を掴んで一致団結して、歩を進める場面の息詰る一時間に、これだからこそ、全員無事に帰国できたのだ、と感動した。

挙げれば切りが無いほど、ひとりひとりが物語ってくれている。他にも  2、3行で帰国できたという外地名だけを記したハガキを多数頂いているが、詳細は掴めず、載せられなかった。引揚げの一部に過ぎないが、その 一端をお知らせすることで、しばらく休筆させて頂きます。

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