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(60)松原寛氏(陰の人々に助けられ)

◆日本鉱業鎮南浦製錬所に、35歳で着任した若手中堅社員であった松原氏が、翌年36歳で、鎮南浦日本人会会長に推され、以後、紆余曲折を経ながら、在住、満疎合わせて1万6千人の人々を引揚げ帰国させ、帰国後も政府との交渉を続け、引揚げに要した費用全額を国から認められ、借金返済を完了させた。そして40年後、70代半ば過ぎ『よみがえる鎮南浦-鎮南浦終戦の記録』を日本人会仲間たちと編纂し仕上げた。この貴重な大著に「はじめに」と「思い出の記」を寄せている。その一部を紹介したい。


製錬所の日本人社員に対し、朝鮮側から最後に強要された社宅衛生(便汲み)を、協力してくれた仲間と一緒にのんびり努めていたら、突然、日本鉱業の矢部所長に、日本人会へ出向くようにとのこと。去年5月に着任、ろくに鎮南浦内での交友も土地勘もないから無理だと申し上げたが、三菱マグネから「岡 工場副長」を出す、問題多い折柄、2人で力を合わせてやって欲しい。在住者と満疎との間をまとめるには、却って何も知らぬ方が好都合だ、と、まったくとんでもない話だったが、所長命令なので、予備知識はまったくないまま「日本人世話会」に出た。

さいわいにも、満疎側の最高幹部に、岡氏も共通の知人が多かったので、全てが円滑に進んで仕合せだった。湯浅大助前会長その他の支部長さん達の顔を覚えることから始まったが、ソ連軍の占領下のなじめない北鮮行政のもとで、通信は断絶、鎮南浦府内に閉じこめられ、いかに敗戦国民とはいえ「四等国民扱い」される惨めさを思い知らされ、無念でならなかった。

それだけに、日本人としての誇りを捨てず、せめて皆で協力し合い助け合い節度あり秩序ある生活行動をしていき、越冬生活の終る頃には、なんとしても祖国帰還を実現させようと心に念じた。

初めて日本人会に出てから38度線を越えるまでに、とりわけ心の支えに なり、協力をお願いした方々を記しておきたい。

●矢部所長:精錬所の終戦処理は見事だった。あの人心動揺の時期に、毅然として敏速周到に善後措置を決定。精錬所は有用な設備であり、いつでも再操業できるよう工場を整備し「臨時休業式」を行なった。8月末に精錬所は接収されたが、ほどなく再開されると、技術指導、社宅居住なども円満に解決したのも、矢部所長の人徳と善処のおかげだった。

●清水さん:久しぶりにお会いしたのは、20年9月、治安署の監房(=牢屋)に入れられた時だ。日本人社員に支給した生活費問題を治安署に責められ、強行に突っぱねたら、頭を冷やせと牢に入れられた。監房に入るや清水さんが「やあ松原君、よくやって来たね。こっちへ来たまえ」と呼ばれたおかげで、牢名主から隅っこの便所側に座らされずにすんだ。私は10日で房を出されたが、清水さんはむさ苦しい中でも自若としていて、重剛な人柄と見識に感服し、その後もご所見を伺いに訪れたものだった。
[追記:清水氏は湯浅、武本引揚げ工作隊長のもとで、紗理院に駐在し、長い間、引揚げ工作・誘導などに活躍した。特にソ連側の「鳳山炭坑の坑夫不足の情報」をつかみ「集団脱出実現」に至ったこと。彼は汽車がぜひ必要な時には、何とか汽車の確保に成功し、脱出者にとっては、この上ない恵みの人物だった]

●岡藤次郎氏:鎮南浦日本人会副会長として、大いにご助力いただいた。行き届いた脱出計画を立案し、編成・輸送も陣頭に立って尽力された。脱出完了後も、鎮南浦に留まって会の始末をし、残留技術者としての任務も全うされた。帰国後も鎮南浦の行事などを共にしてくれている。

●横瀬政雄氏:21年2月私が再び日本人会会長となった時、副会長をお願いした。彼は東京商科大学 (=現一橋大学) 時代から社会思想問題に精通していて、北鮮の風潮にも見識あり、決断力にすぐれた頼もしい人物だった。 21年6月には、私のあと会長に就任。不屈の胆力と縦横の才能で、脱出再開のため奔走され、りっぱに完了させてくれた。

●高橋すみさん:生粋の鎮南浦っ子で、小学、高女と仲間も多く、日本人と朝鮮人の分け隔てをしない気前は、父上の家業の従業員に対する処遇を見ていて、身につけたよう。もともと女傑型の人柄で、明敏公正な判断力があり、反日感情のざわめく町なかを、闊歩できた唯一の人と言ってもよい。 保安当局者からも信頼され、青年達からも敬意を払われていたので、本署や共産党本部へも、時には平壌までも子連れで押し歩いて下さった。日本人会のことだけでなく、頼ってくる人達の面倒を見、正式帰還の最後まで残って、会のため奔走して下さった。

●武本仁平氏:三江から1600人を連れて、難所中の難路である「延安コース」を選んで下さったご苦労には、まったく申し訳ない思いだ。[註:彼は途中で他地区からの引揚げ者や脱落者を、全て引き受け、3000人越えの人々を引率して、これほど惨めな 襤褸ぼろ姿の引揚げ者集団は初めてだ、と引揚げ船の船長に言われた由]

私、松原組の2200人は、何人もの工作隊の方々に守られ、9月とはいえ、真夏の炎天、夜は夜露の野宿を重ねたが、途中牛車を雇って、病弱者や年寄りなどを乗せ、どうにか無事に38度線を越えることができた。この時、次のお二人が大いに助けてくれた。                                                                             ●石垣久治氏:ソ連語が得意で、38度線を全員が通り過ぎるまで、境界線を越した川辺に立って、見守ってくれた。
●助川敏郎氏:最後尾は元気の良いひとたちに背負われた病人班で、この しんがりをつとめてくれたのが、助川氏だった。一生忘れられない光景だ。

このお二人には、日本人会の仕事でも非常にお世話になった。帰国後の鎮南浦全国大会で、一度お目にかかっただけで、再会することなく逝かれた。 嗚呼。

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