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7章-(7) ヘンリー8世について

ある店で、「ヘンリー8世のタペストリー」を買ってしまった。彼を中心に6人の王妃の絵を初めて見て、6人も后を変えたの?と驚いた。帰国後、『英国王室物語』などで調べてみた。


ヘンリー8世と后たち

◆ ヘンリー8世は、1491--1547、56歳で死去。ヘンリー7世の次男で、兄が若死にした後、18歳で国王となる。この時、兄アーサーの未亡人であった「キャサリン」は、彼より6歳年上で、兄アーサーとは半年間の結婚にすぎず、病弱で年下であったアーサーの看病のみで、処女のままだった。ヘンリーはこの未亡人と一種の政略結婚をする。

キャサリンは当時カトリックの一等国であったスペイン国王の娘で、ローマ皇帝の伯母でもあったため、当時3等国のイギリスには、必要な后であった。彼女は教養あり、美しく利発で国民にも慕われていた。

ヘンリー8世は190cm近い巨漢の、しゃれ者で才気煥発、信仰心が篤かった。20数年の結婚生活の間に、7人の子を得るが、子どもはみな死産、若死にし、残ったのは「メアリー」ひとりだけだった。

● シェイクスピア詩劇『ヘンリー8世』によると、彼は世継ぎに恵まれないのは、再婚の妻をもらったための神罰ではないかと煩悶(旧約聖書レビ記20章に条文あり)。容色衰え、年取って世継ぎを望めない妻にも飽きる。

● 当時、権勢を誇っていたウルジー枢機卿のパーテイで知り合った、フランス大使の娘で、キャサリン后の侍女であったアン・ブーリンに恋し、妻との離婚を決意。ローマ法王には認めてもらえず、求婚を拒み続けるアンを6年求め続けた末に、正式結婚を条件に結ばれ、アンは懐妊。

● 王は議会のクロムウェルを利用し、ローマ教会から分離するための法律を次々に通させた。1533年1月、アンとひそかに結婚式をあげ、クランマー   大司教に離婚と結婚を宣言させ、アンの戴冠式を強行。

● 9月に「エリザベス」誕生。ウルジー枢機卿は金にからむ悪事の数々が    ばれ、またアンとの結婚に反対でもあったので失脚する。彼と王の命令で、幾人もの貴族などが、無実の罪でロンドン塔へ送られ、命を落している。(ヘンリー8世の生涯で50数人の著名人が処刑されている)

(余談だが、シェイクスピア劇の『ヘンリー8世』の公演中、ウルジー枢機卿邸のパーテイ場面へ、お忍びの8世 (俳優演じる) が訪れる際の大砲の火薬から火事が起こり、シエイクスピア作品の多くを初演した劇場であった《グローブ座》が焼け落ちた。1997年に350余年ぶりに、当時の建築様式で再建されている)

● 結婚の翌年 1534年、「英国国教会」としてローマ教会から分離独立。
・1536, 1539年に、「修道院解散法」を発令して、従来の教会の土地財産を没収。576僧院、その収入10万8千ポンド。これにより、没落した人々が続出する一方、ハードウイックのベスの2人目の夫の「教会打ち壊し長官」のように、時流に乗ってヘンリー側となった者たちには、役得があった。

● 国王は莫大な財産を獲得し、後の絶体王政にいたる財政的な基板となった。貴族達はひそかに旧教を守り続ける者、保身のため信教に従う者と、  疑心暗鬼がはびこり、互いに信頼関係が揺らぐ時代でもあった。

● アン・ブーリンは、その後世継ぎの男子を産めないため、王の愛は冷め、(無実の)不義を理由に29歳で処刑された。この時、幼児のエリザベスは、父王によって「庶出児宣言」をされた。

● その10日後、結婚した3人目の后の「ジェーン・シーモア」は、1537年「エドワード(後の6世)」を産むが、12日後死去。当時は衛生観念乏しく、 出産は命がけ。産褥熱で死ぬ者が多かった。

● 4人目のドイツの「クレーブ公女」は、肖像画と実物が違いすぎ(醜女の ため)、王はその気になれぬと、処女のまま半年後離婚(宰相クロムウェルは、この結婚を勧めた責任で処刑に)。公女は「国王の妹」の身分と年金・荘園・城などを与えられ、彼女はドイツへは戻らず、42歳で亡くなるまで  王家の家族として、英国で安楽に暮した。

● 5人目の「キャサリン・ハワード」(=アン・ブーリンの従妹・文盲で無教養だが美貌)と、1540年結婚。19歳の妻の彼女は、ヘンリー王が肥満体で梅毒に冒されていて、歩くこともままならないため、王にあきたらず、姦通罪で告発された。調査後、男性経験豊富な過去と、告発の疑惑は「黒」が明るみに出て、王は救えず 1542年21歳で処刑に。

● 6人目の「キャサリン・パー」は、未亡人で知性高く、博学で思いやり深く、王とは3度目の結婚だったが、王は初めて家族の味を知る。義理の2人の娘(=キャサリンの娘のメアリーと、エリザベス)を「王女」に復権させ、継子3人(メアリー・エリザベス・エドワード)を同じ城に呼び寄せ、語学を教え、慕われた。彼女のみが后としては、王の死後まで生き残った。が、王の死後3ヶ月後に、王との結婚前の恋人トマス・シーモア郷 (ジェーン・シーモアの兄)と4度目の結婚。女児を出産後8日目に死去。夫のトマスは1年後に、ロンドン塔で刑死。これは8世の跡を継いだメアリー女王が旧教に戻して、新教徒を弾圧したことと関係しているよう。

◆ ヘンリー8世の死後、「エドワード(10歳)」が国王となり、父の新教(英国国教会)を引き継いだ。ところが病弱で、16歳で死去。そこで、ヘンリー8世の最初の妻キャサリンの7人の子のうち、ただ1人生き延びる事のできた「メアリー・チューダー」が「メアリー1世」として王位についた。彼女は母キャサリンのカトリック信仰を守っていたため、迫害されていた。そこで母の「旧教」を国教と定め、父王が破壊させた、カトリック僧職や僧尼院の再建を計った。

● そのため国内は各地で再び大混乱となり、反乱も起こった。そこで女王は「異端者処罰法」を復活させ、約300人のプロテスタントを見せしめのため処刑した。Bloddy Mary (血なまぐさいメアリー) と呼ばれるのは、このためだった。

● メアリーは母の国スペインと共に、フランスと闘ったが、1558年に大陸  最後の領地であったカレーを失い、失意のうちに病死。

● その後に、国王として浮上したのが、ロンドン塔に入れられていた「エリザベス」だった。彼女は義姉とは逆に、父の英国国教会を国教に戻し、旧教のスコットランドのメアリー女王が、自国内の旧教貴族と手を結ぶのを警戒、あらゆる手を使って妨害した。

◆◆◆ヘンリー8世は、自国の安泰と存続を願い、男子の世継ぎを得ることが第一と信じ込んだために、焦りもがいた結果が、信教設立と6度の結婚と、国内混乱を引き起こすことになったのだ。一方で、英国の盤石の土台を築いた名君、という評価もあるそうだ。

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