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(2) 深いあずき色のピアノ

あ、ここかも! 初めてみる看板だった。見回すと、灰色のモルタル作りのアパートの1階に、同じ色の看板を下げたドアが見えた。ドアの前の石の上にも、石鹸が1つ落ちている。

ノックすると、ドア越しに電話をしている声が、はっきりと聞こえて来た。

「・・時間をまちがえてしまいまして、失礼しました・・ええ、はあ、明日必ずまいります。朝の9時半ですね、は、申し訳ございませんでした・・」

芳子がドアを細めにあけてみると、受話器を耳に幾度もおじぎしている姿が見えた。ドアの気配に気づいたのか、すかすように見ながら、どなたで   しょ? と訊かれた。

「落とし物、ここにおきます。ピーマンと、歯ブラシと、石鹸と・・」

「あらまあ、どうしましょう。そんなに落してました?」

その人は、思いがけないほど明るい声で言って、吹き出した。受話器を置いて、手探りで壁伝いにやってくると、芳子の手を探るようにして、手を取った。

「ありがとね。わざわざ届けていただいて。あなた大きい方ね。何年生?」

「6年生です」

芳子が答えると、その人は強い力で芳子の手を引っ張った。

「ね、お茶を飲んでいらっしゃらない? うぐいす餅をいただいたの。でも、ひとりではつまらなくて・・」

斉藤さん、とだけ名前のわかった、目の見えない人にさそわれて、芳子は ちらっと母さんの姿を思い浮かべた。発表会のすぐ後、母さんは約束して あった隣町へ、バスで出かけて行った。

ひとりぐらしのおじいさんを、お風呂に入れてあげる日だった。ボランティアの仕事で、週に3日は手伝いに出かけて行く。帰りは8時近くになるはずだ。父さんは、それまでひと寝入りしとくよ、夕飯は芳子に頼むねと車の中で言っていた。父さんは、今日一日中、ピアノをいっぱい聞かされて、芳子の送り迎えで疲れちゃったよ、とぼやいていたけど、嬉しそうでもあった。

しばらくは時間があるわ、と芳子は心を決めると、くつを脱ぎ始めた。

さあさあ、その人に押されて、せまい板の間から、6畳のへやへ足を踏み 入れた。

日当たりの悪いせいだろうか。早くも夕闇がしのびこんでいて、ひんやりと肌寒い。花模様の細長いふとんが、窓近くに敷かれている。ここでマッサージの仕事をするのらしい。小さなテーブルと、壁際に細い洋服だんす。そしてあずき色に光る縦長のもの。押し入れはあるが、せまい部屋には、これ以上何も入れられないほど、いっぱいいっぱいだった。

なんだろう、あの縦長のものは。目をこらして見ると、ピアノのようにも見える。

「ここに座ってらしてね」

入り口近くのテーブルのそばに、座布団を2つ置いて、その人は、すり足ですぐ近くの台所へ向かった。

その人は、ガス台にマッチの火をつけようとし始めた。

「あの、わたし、やりましょうか?」と、芳子は声をかけた。

「いいのよ、なれてるから。ひとりで住んでると、火をこわがっていては、生きていけないの」

「わたし、お手伝いします。母がボランテイアでるすが多いので、私がいつもやってるから」と、もう一押し、言ってみた。

「いいのよ。ありがたいけど、私の頭の中には、地図があるの。その通りにものを動かさないと、この次に困るでしょ」

芳子ははっと胸をつかれた。湯のみひとつにしても、位置が決まっている のだ。

待っている間に、芳子の目は、ついピアノらしいその縦長のものに引き寄せられてしまう。とっても奥深い色。形は芳子のと似た箱形だ。どことなく丸く、どっしりと時代がかかっていて、この部屋にはそぐわない重厚な雰囲気がある。

あの人が弾くのかしら?

「あなたは今、すてきな服を着てらっしゃるでしょう? ふわっとして、 春の色の・・」

明るい声といっしょに、湯気の立つお茶と、うぐいす餅をのせたお盆が、 目の前に置かれた。手元はうす暗いのだが、やわらかそうな餅が、浮き  上がって見える。

その人は、にこにこして茶をすすめてくれた。

「今日、ピアノの発表会だったんです」と、芳子は言った。

「そう。それでふわっとしたドレスだったのね。何を弾いてらしたの?」
「『アルプスの鐘』です」

芳子の答えに、その人はふっと湯のみを持つ手を止めた。黒めがねが、  窓ガラスの向こうの遙かかなたを見つめるように、じっと動かない。

「あ、あの、おばさんもピアノを弾かれるんでしょ?」

「え? ああ、これね」

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