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(1) 落とし物

「パパ、私ここで下りる。ほら、コブシの花がいっぱい。少し拾ってママに上げるの」
「先に着がえをした方がよくないか。ドレスを汚すなよ。ママの手作りを台なしにするな」
「わかってる。 パパ、疲れたでしょ、今日は1日ありがとう、休んでて」

そう言い残すと、芳子は自宅へ曲がる道の角で、車を降りた。パパはその まま自宅の車庫へと、角を曲がって行った。

風のない5月初めの夕方、その日のピアノ発表会で、演奏は高田先生に最上のできと褒められて、興奮状態、ウキウキ気分がぬけなかった。目の前の 中学校の塀の上から、伸び広がったコブシの枝から、ひらひらと舞い降りてくる花びらをいっぱい集めて、そこら中にまき散らしながら、踊りたいほどだった。

金網越しの校庭は、しんと静まっている。いつもは、近所の子どもたちの声でにぎわう塀わきの通りも、通り沿いの新築の家いえも、静かだ。始まったばかりの連休で、出かけた人が多いらしい。

芳子の家は、学校のすぐ脇に、建ち広がった住宅街の一軒で、庭にはまだ ツツジやモクレンなど背の低い若木ばかりだ。周囲のどの庭にも、これほど見事な木は見当たらない。すっくりと伸びた木から、開ききったコブシの花が、重みにたえかねたように、ほろほろと落ちてくる。

コブシの花粉が、若草色のワンピースの胸にしみをつけないよう、芳子は 手を前につきだした。今日のピアノ発表会のために、ママが縫ってくれた。長めのスカートもお気に入りのドレスだった。会を無事に終えても、すぐには着替える気になれなかった。

「あの・・今、何時でしょうか?」

ふいに、遠慮がちな声が、うしろから聞こえた。芳子がふり向こうとすると、手の花房がパラパラとくずれた。

「時計は、ほら、校舎の正面にあります」

芳子は答えながら、声の方へ向いてみた。

「あの、正確に何時でしょう」

また訊かれて、おどろいて、その人を見た。あんなに大きな時計が、目に 入らないのかしら・・。黒めがねをかけた女の人が、大きな紙袋を地面すれすれに持って、道の端に立っている。ママよりはずっと年上らしく、髪に白いものが半分ほど混じっていた。

斜め向こうの、校舎の正面に見える時計は、太い針でくっきりと、時刻を示していた。

「5時12分です」

芳子が伝えると、女の人はありがとうございました、と丁寧におじぎして、歩き始めた。その後ろ姿に、芳子ははっとした。紙袋の陰に白い杖が見えたのだ。

その人は、ふり向いて、もう一度おじぎを返すと、かすかに杖の音をひびかせながら、学校の塀と住宅街の間の道を、遠ざかって行った。

また花を拾おうと身をかがめたとき、芳子は赤い柄の歯ブラシが落ちているのに気づいた。まだ袋入りの新品だ。

「落とし物?」

目を上げると、1mほど向こうに、ピーマンが1つ、緑あざやかに見えた。その先にも、また1つ・・。

あの人が落したんだ!

もう姿は見えない。でも、きっとそうだ。

芳子はいそいで、コブシの花を、自宅の玄関先の石段の上に置きに走り、 すぐわきにあったヤツデの葉を、一枚もぎ取った。それから落とし物を拾い集めに戻った。ふっと心に落ちるものがあった。目が見えないと言うことは、こういうことなんだ。

袋の穴から落ちていることに気づかない。誰だってふり向けば気づくものだ。でも、さっきふり向いた時も、見えなかったのだ。この鮮やかなピーマンの緑さえも目に映らない・・芳子は、いっしゅん、立ちすくんでいた。

ヤツデの葉の上に、落とし物をのせて包むようにして、学校の垣根の終わりまで行ってみた。右手の新築の住宅街のはずれに、古い市営住宅の一郭が見えた。そのわきに、これも古いアパートがある。その角まで来て、小さな看板が2階への階段の手すりに、かけてあるのが目に入った。

「マッサージ、斉藤」と赤い枠で囲ってある。


(画像 蘭紗理かざり作)

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