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(3) アルプスの風景が

その人は、現実に引き戻されて、軽い吐息をついた。それから、先程の明るさに、ムリに戻ろうとするように、声を高めた。

「もう30年近くも、閉じっぱなしよ。目が突然見えなくなって、ショックで苦しんだ時、幸福な時代は閉じこめて、2度と過去は振り返らないことにしたの」

おかげで、今は、ピアノの代わりに、ひとさまの身体をタッチして、生きているわ。

その人は、そうつけ加えて、笑い声を上げた。芳子は声も出せないで、お茶をこくりと飲みこんだ。

「父も父よね。私がこんなことになるなんて夢にも思わないで、最高級品を買ったりして・・」
「こんな立派なの初めて見ました。色もめずらしいし、外国のものですか?」

芳子は、やっと話のつぎほを探り当てた。

その人は、ゆっくりとうなずいた。第一次世界大戦で、大きな痛手を受けたドイツが、復興をめざして、国を挙げて貿易にとりくんだ頃、ドイツの職人が、精魂こめて手造りしたものだという。父親が貿易商だったので、ドイツと取り引きがあり、手に入ったのだ。日本に同じ物が、2,3台しかないのだそうだ。

芳子は惹きつけられた。

「どんな音がするのかしら」
「弾いてみたいでしょう?」

その人は、じらすように芳子を斜めに見た。それから、黒めがねの顔を伏せて、なにごとかを考えこむように、手のひらにぐるぐると指を走らせた。

「一度聞くとね。また聞きたくなって、苦しくなるかも知れないけれど」

言いさして、その人は、思い切ったように立ち上がった。

ピアノを開けるかどうか迷っていた人が、芳子を手招きした。

「さ、どうぞ。弾いてごらんになって」

カギを開け、その人は芳子の腕をとるようにして、ピアノのいすに座らせた。

鍵盤はまっ白ではなく、時代を感じさせる黄色みを帯びていた。指を触れると、しっとりとなめらかな肌触りだ。

ポーンとひとつはじくと、おどろくほどまろやかな音が、躍り出た。ポン ポンポロンポロン。象牙作りのキイは、芳子のタッチに答えて、心に染み 入るような音色を出した。

「無事だった・・でも、少し低いかしらね、半音まではいかないけど・・」

その人はかすれ声で言って、芳子に背を向けて、椅子のうしろにもたれる ように座った。

「さ、弾いてくださいな。『アルプスの鐘』」

芳子はいっしゅん緊張して、胸がドキドキした。両手を構えた時、キイだけが薄闇にぐんと迫ってきた。目が見えないということは、こういうことなのだ。暗くなっても、電気を灯すことに気づかない。芳子は闇を闇のまま迎え入れなければならない。

のしかかってくる夕闇に、芳子はいどむように目を閉じた。暗譜なら充分にしてある。

ンタラッタラッタ ンタラッタラッタ
リラリラリラリン

明るく、軽やかに。軽快な始まりから、たちまち、アルプスの大きな風景が広がり始める。澄み切った空気、高くそびえ立つアルプスの峰みね。起伏の多い岩山から草原へ、谷間を下る清流。かけまわっているハイジ。羊を追うペーター。伸びやかに、リズム感大切に。

ピアノの高田先生が描いてくれた情景が、いつのまにか芳子の心の中から あふれ出ていた。
 
タラララララリリリン ・・・ンタラッタラッタラッタ・・

高音から低音へと、くり返し弾むようなリズムに乗って、踊り出したのは、あれは弘美だった。芳子のひと月前の、12歳の誕生日の時だ。4月初めの春休み中に、12人も友だちが集まってくれて、歌ったりゲームをしたり。芳子のピアノに合わせて、弘美が踊り出すと、男の子たちもさそわれて、リズムに乗った。

アルプスの山村に、鳴り渡る鐘の音。高く高くこだまして。小さな教会  から、村々へ、山々へ。神の恵みを告げる美しいひびき。うねりながら、 駆けもどる羊の群れ。山肌を駆け上り、駆け下り。沈む夕日と赤く染まった雲の波、また波。さようなら、さようなら、今日の1日。

ダンダララララ・・・

指がキイを離れても、甘い音の世界の余韻が芳子を包んでいて、まだアル プスの草原に座っているような、しばらくは、どこにいるのか忘れかけて いた。これまで弾いたどのピアノより、快い響きが、豊かな情景を引き出してくれた。こんなに深い満足感で、弾き終えたのは、今日の発表会の時よりももっと深くて、今までに一度もなかった気がした。

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