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第三話 テレビの中の無名時代の野口健

北アルプスで穂高から剣岳まで広大な景色の中を歩いたが、数日後には、高校生という日常が待っていた。
鼠色の薄汚れたコンクリートの校舎。
小さな箱が何百と並ぶ靴箱。
成績の上位ランキングが張られた廊下。
そのずっと先まで続く同じ形の教室。
授業の始まりを告げるチャイム。
カタカタと響くチョークの音。

どうして自分は、こんなところにいるのか? 
生きている実感がまったくなかった。

剣岳山頂の顔に当たる冷たい空気。
眩しい太陽。
うねるように続く山稜。
赤く輝く雲海。
黒から紺碧に変わりゆく空。
朝露に輝く足元の岩々

あの世界は、どこへ行ってしまったのだろうか?
鉛筆を走らせる仲間の中で、私は茫然としながら、剣岳からの風景を思いだしていた。
そして、机の下に広げた文庫本をこそこそと読んでいた。
星野道夫さんの本の次は、北極圏を舞台にした野田知佑さんの「北極海へ」や、植村直己さんの「青春を山にかけて」などの冒険譚。
やがてそれらと並行して、普通の小説やエッセイも読みはじめた。
授業がつまらなければつまらないほどに、本の世界が面白くなっていく。
気が付くとジャンルを問わない乱読状態となっていった。

エッセイの中で、印象的だったのが1979年に書かれた放送作家・向田邦子さんの「中野のライオン」というものだった。
「他の人たちと、同じ場所、同じ時にいるのに、自分だけが見えてしてしまうものがある。」
そういった内容だった。

ある日、向田さんが街の通りを歩いていると、突然、上から人が降ってきた。
電柱で作業していた人が、落っこちてきたのだ。幸い大きな怪我はなくすぐに立ち上がったが、近くの通行人は足早に通り過ぎていき、声をかける人はいない。
不親切だったのではない。気が付かなかったのだ。
 
そのようなエピソードが続くのだが、極めつけは「ライオン」の話だ。
1950年代のある日の夕暮れ時、まだクーラーもなく、蒸し暑いラッシュアワーの中央線に向田さんは乗っていた。
そして中野を通りすぎた時、線路沿いのアパートに衝撃的な光景を目にする。
「私が見たのは、一頭のライオンであった。お粗末な木造アパートの、これも大きく開け放した窓の手すりのところに、一人の男が座っている(中略)その隣にライオンがいる。たてがみの立派な、かなり大きい雄のライオンで、男とならんで、外を見ていた。」
そのエッセイは向田さんが、二十年前の記憶をもとに書いたものだった。
だが記憶違いではないと、向田さんは断言していた。
1950年代にあのように精巧なぬいぐるみはなかったとも。
しかしその時、その異様な光景に気づいた人は、向田さん以外に誰もいなかった。乗車していた多くの人が、同じ方向を見ていたはずなのに。
私がそれを読んで、しばらくたった日の夜のことだった。

家族と一緒に茶の間でテレビを見ていると、ネパールのことが報道されていた。
トレッキングツアーで遭難事故が起き、日本人とネパール人の何人かが亡くなった。
遭難したネパール人を知っていたという若者がインタビューを受けていた。
私はその人に目を奪われた。
独特のワッペンをいくつも付けたフリースを着た若者。
彫りの深い顔。
カメラを前に、ニコリともせずに、何かを考えているようだった。
どこの国の人なのか、わからなかった。
そしてその風貌以上に、まわりの空気感に同調しない、独特の雰囲気を彼は持っていた。
20代半ばだろうか。
若いのに完全に流行のファッションを無視したワッペン付きのフリースを着ているところからして、何かがズレていた。
彼は少しコメントをしていたが、それは会話の流れに合わせたものではなく、何か独特のことを言っていた。
なまりはなかったから、日本人であることはわかった。
ただ、日本のシステムではないところで育ち、行動をしてきたことが画面越しに伝わってきた。
アナウンサーは会話を続けることなく、テレビはすぐに他の場面に切り替わり、彼が再び登場することはなかった。
とても短いシーンだった。

衝撃を受ける僕のとなりで、家族はミカンを食べたり、お茶を飲んだりして、ぼんやりしていた。
おそらく他の視聴者の誰も、そこで熱狂する人はいなかったはずだ。
だが、その短い時間で、私は彼の独特のエネルギーに気づくことができた。それはたぶん、当時私が、高校でがんじがらめの生活の中にいたからだ。今、感受性の薄れた43歳私が見ても、何も感じなかったに違いない。

テロップには、彼が「亜細亜大学」の学生ということが書かれていた。
海外にある大学なのだろうか? とその時は思った。
翌月、本屋でアウトドアの専門誌を開くと、なんと、そこにテレビの彼が出ていた。小さなモノクロ記事で、彼がエベレストに挑戦し、失敗したことが書かれていた。
彫りの深い顔がこちらを情熱的に見据えている。
彼の名前は「野口健」とのことだった。

テレビのテロップに書かれていた「亜細亜大学」。その大学のサポートを受けてエべレストに挑戦したことも、その記事には書かれていた。
亜細亜大学は、海外の大学ではなく東京の武蔵野市にある大学だった。
この大学に行けば、彼に出会えば、何かが起こるかもしれない。
根拠はなかったが、直観的にそう思った。

入試まで半年を切っていた。
受験勉強は放棄してしまっていたので、どの大学にも入る可能性は全くなかったが、私は勉強をはじめてみた。
そこから猛烈に勉強を始めるのであればドラマになるのだが、やはり受験勉強は苦痛でしかなかった。
私は何度も本の世界に逃げ込んだ。
そして、向田邦子さんの他のエッセイも読んだ。
そして「中野のライオン」の驚くべき「続編」を読むことになる。
あのエッセイを発表した後に、「実は中野でライオンをアパートで飼っていたものなんですが」という人が電話をよこしてきたというのだ。
「いたずら電話」ではなかった。
向田さんが会いに行くと、彼は事実としか思えない詳細な話を始めたのだ。
夢ではなく、記憶違いでもなく、本当にライオンは中野のアパートで飼われていたのだ。

しかし残念ながら向田さんがエッセイにしたのは、ライオンを目撃してから20年ほど後のこと。
ラインオンは死んでしまっていた。
向田さんは、飼い主だった方と会い、昔を懐かしんだ。
「その夜、私たちはライオンを語りながら、自分たちの二十年昔を、青春を懐かしみ語り合ったのかも知れなかった。おたがいにまだまだ若く力もあり、無茶苦茶で相手かまわず噛みついていた。新宿も中野もまだ夜は暗く、これからという活気があった。」
多くの人が目にしながら、そのほとんどの人が、その異様さに気が付かない光景がある。 
私にとって、テレビの中の野口健さんのワンシーンが、その光景だったのだと思う。

向田さんは、中野のライオンの存在をすぐに確かめることはしなかった。
だが私は確かめに行ってしまった。
そして、会ってしまった。
幻の「ラインオン」=野口健さんは、その時を生きていた。
まさに「無茶苦茶で相手かまわず噛みつきながら」。
はじめて会ったのは今から25年も昔、1998年4月のこと。
そこから私は、野口さんと同じ家で4年間も暮らすことになる。

向田さんの回想エッセイのような筆力はないが、あの日々は衝撃的でいまだに鮮明に覚えているのだから、ここに書き残してみたいと思う。(つづく)


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