騒がしい輪郭 トークゲスト 九月(芸人)

 この度、京都下鴨で私がオーナーを務めるオルタナティブスペースyugeにて、個展「騒がしい輪郭」を開催した。
 会期は12/8(日)から12/15(日)となっていて、その中で四回にわたってそれぞれ違うゲストを呼んで私と共にトークイベントをさせてもらうことになっている。
 それぞれのアーカイブをnoteに残しているので、トークイベントに参加できなかった方や、参加後に振り返りたい人は是非。

その他のトークイベントの記事はこちら↓
 Vol.1 ゲスト 松原元(建築家)
 Vol.2 ゲスト 米村優人(彫刻家)

 12/13(金) 17:00より
  トークゲスト:九月(芸人)
    ※ コ…コニシムツキ 九…九月

01.パンチがあるものづくり、地味なものづくり

コ:今回来て頂いたのは、芸人の九月さんです。

九:よろしくお願いします。

コ:トーク前に30分ほどネタを披露していただきました。ありがとうございます。

九:いえいえ

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コ:九月さんが祇園で新ネタ公演というのをやっていたのを、僕が見に行ったというのがきっかけで知り合ったわけなんですけども。

九:そうでしたね。

コ:ちょっとおこがましいかもしれないですけど、僕は九月さんに対して自分と同じようなものを感じていて、それもあってライブ終わりにお話をしかけに行ったのもあるんですよね。

九:うんうん。ありがたいことですよ。

コ:「構造」とかに焦点を当てて物事を考えているっていうのは、この二人のすごく近い部分なのかなと思うんですよね。
  それこそキャラクター性だったり、インパクトやパンチの効いたモノづくりで、ドカンと圧倒させるみたいなやり口で表現をしようとかは、お互いハナから思っていないですよね(笑)

九:そうね、全く思っていない(笑)

コ:僕の作品は今回とかは特にそうなんですけど、巨大な物質があるわけでもなく、何かトラウマとかをモチーフにして心に強く訴えかけるとか、そういった派手な演出のものも一切ないんですよね。
  九月さんもスタイルとしては、モノマネ芸や一発ギャグをするタイプでもないし、奇抜な服装、髪型、小道具とかビジュアルのパンチに頼らない芸風ですよね。

九:そこは意図的に排除しているところはあるね。
  これはきっと美術とかに対しての逆転現象なんですけど、お笑いにおいては内省的なことをやる方が地味なんですよね。でも美術だと内省的なところが全面に出ているものの方が派手になりやすいというか。

コ:たしかにそうですね。良し悪しは全く別としてそんな印象はあります。

九:だからお笑いは内省をゼロにして脱いじゃえば、インパクト値はでかいですよね。そりゃ。 

コ:たしかに。海パンの男がリズムに合わせて喋って踊ってるだけでもむちゃくちゃ面白いわけですもんね。

九:むちゃくちゃ面白い!原始の笑いですからね。
  それこそ昨今のお笑いだと、アキラ100%さんとか小島よしおさんとか、あんなの1000年前でも面白いですよ。

コ:ほんとだ。ち○こが見えそうなだけなのになんであんな面白いんだろうな。

九:きっと1000年後でも面白いです。
  それこそモノマネは大昔からあって、声帯模写とか腹話術とかのあたりの見聞きしてすぐ面白いとなるものって歴史は深いんですよね。

コ:いわゆる”芸“って感じがしますね。

九:そうそう。でも一方で構造だったある種ストーリーめいたユーモアはそんなにまだ比較的に歴史が長くはないんですよね。もちろん海外だと笑いの要素のある戯曲とかはあるんだけども、ユーモアが目的とされるコンテンツとなるとやっぱり最近のものなんですよね。

コ:それこそパンチの効いたやり方の方が評価されるかされないかは別にしても、目立ちやすいっていうのはお互い理解しているわけじゃないですか。それでもなんでこうった食べにくいものを扱おうとしているのかですよね。
  僕の場合はそういったパンチの効いた派手なやり方がどうにも苦手だと自覚してから、自分の一番面白いと思うことを面白いと思う形で出そうと割り切ったんですけど、九月さんの場合は最初から内向的な視点でものづくりをしていたんですかね。

九:僕は今まではコンビで活動していたんで、以前は相方の方にアイキャッチ的なものをやってもらっていたんです。

コ:たしかに「カフカ」時代はプレーンな外見の男性の今井さん、「カフカと知恵の輪」時代はミスIDにもエントリーしていた容姿端麗な知恵の輪かごめさんとの男女コンビとしての活動でしたね。

九:そう。どちらも相方に目が向くようなネタの作り方だったんです。
  それは何点か理由はあるんだけど、一番は「お笑いがしたい」のか「お笑いで何かがしたい」のか。ネタを書いていたので僕の場合は後者で「お笑いを通して何かをしたい」なんですよね。この手のスタンスが嫌いな人も結構多いとは思うんですけどね(笑)

コ:「お笑い"を"やれよ!」って言われたりね(笑)

九:そうそう。でもその理屈だったら僕はお笑いやってないんですよね。僕が芸人にならなくても面白い人はたくさんいるし、極端な話お笑い芸人がいなくたってみんな生活の中で笑うことはできるわけで。そんな世の中で、自分が芸人をするなら何をするかって考えると、自分から出てきたものだけでやりたいって思ったんです。だから自分自身がビジュアル的な面白さとかを持っているならきっとやっているけど、無いものは無いんだから(笑)

コ:そうか(笑)
  やっぱ自分のキャラクター性の薄さみたいなものは、芸人として活動しているとどこかで自覚させられるんですね。

九:そうですね。あとシンプルに派手なものが元からそこまで好きじゃないのも大きいと思いますね。
  要するに僕、セカイ系が苦手なんですよ。

コ:はいはいはい(笑)
  それはお笑いに限らず創作物全般においてですよね。

九:そうです。仰々しいストーリーと強い舞台設定やギミックがあって…

コ:けれど描かれる人間関係などの描写はすごくミニマルな…

九:そうそうそう!それこそ僕が一番好きなジブリ作品は「風立ちぬ」ですもん(笑)

コ:たしかにあれは一番地味まであるかもしれないですね(笑)

九:地味なら地味な方が好きなんですよね。地味で淡々とした冷ややかな現実感がある中で、でもそこにこそ、小さなところから大きなものの片鱗が見えるっていうのが好きなんですよ。
  僕はきっとお笑いでもそういうのを狙っていくと思います。そういうものが好きなんですね、きっと。

02.純〇〇を目指しては純〇〇へ到達できない

コ:先ほど言っていた「お笑いがしたい」ではなく「お笑いで何かがしたい」なんだという話はとても納得できますね。僕もいうなら「美術がしたい」というよりは「美術で何かがしたい」という感覚の方が近いというか。
  それこそ今回の展示で自分の作品を、いわゆる美術のような形式で展示はしているんだけども、別に「こんなものは美術じゃない!」と言われたとしても「まあ、そうかもしれないですね」と思ってしまう気はするんですよね。美術であることにこだわりはそんなにないんですよね。
  自分が面白いと思ったものを、面白い形で成立させて発表したいだけなので、そこには美術的な要素もきっと美術を学んできた僕が作るなら混ざってしまう。それだけな気がしますね。 

九:うんうん。それこそ「純お笑い」とか「純美術」みたいなものって、到達する可能性はあれど、目指すものではない気がするんですよね。
  憧れた時点でそれにはなれないというか、「純美術」を狙うとそれは「似非美術」になりかねないじゃないですか。

コ:悲しいことにね。

九:お笑いの養成所とかでも、やっぱ初めはみんな誰かに似ちゃってるんですよ。あの人とあの人のネタを足してるな、みたいな。
  でもそう言ったものを抜け出してオリジナリティってものを手に入れるなら、オーソドックスから足算をすることで生まれるわけじゃないと思うんです。むしろそこから何か引き算をすることで生まれるんじゃないかなと。

コ:ああー、なるほど。

九:従来の漫才でいうなら、ボケがあってツッコミがあって、掛け合いがあってテンポもよくてっていうのがありますよね。そこから重要とされるツッコミを抜いてみようとか、掛け合いを無くしてみよう、あえてテンポを悪くしてみようとか、そうやって何かしら引き算したものからオリジナリティが出ているんじゃないかともうんですよね。
  その法則でいくと、オリジナリティの強いものは当然「純お笑い」というものからは少し離れてしまうんですよね。でも逆にそれで名を残してしまえば当初邪道と呼ばれていたものが、知らない間に新たな主流になってしまうこともあるんです。

コ:うんうん。美術史でも印象派あたりの流れは特にそれと同じですね。

九:それこそ笑い飯さんのWボケとかは珍しかったけど、今では結構いるんです。一個の流派になってしまっているんです。オードリーさんのズレ漫才とかも今はたくさんいるし。
  結局「純〇〇」へ到達するには、遠回りでも「純〇〇」を目指さないっていうことなんだろうね。

コ:オリジナリティの話をするなら、ほとんど美術しか知らない美術オタクが作る美術って、僕全然好きじゃないことが多いんですよね。美術以外にも映画とか文学とか、アニメや漫画でもいいんですけど、そういう要素の深みがある人のものの方が興味が惹かれるんですよ。
  それって人それぞれ好きなものが色々あるわけで、その複数ある好きなものの共通項にこそ、その人が物事を面白いと思う感性が凝縮されていると思うんです。だからきっと、その共通項だけをいかに的確に抽出して、その感性でものづくりが出来るかどうかっていう作業も、違う形の引き算に近いかもしれないですね。

九:そうだね。ノイズは少ない方がいいですもんね。

03.文脈から切り離した文化はゴミになる

九:お笑いだけじゃないとも思うんですけど、人が作った何かを見る時に「こういう意図があって作ったんだな」というのは理解できた方が楽しいとは思うんですよね。

コ:そうですね。
  現代美術とかは特に最近だと一般的には難解なものとして認識されてるんと思うんです。あれってそもそも別に理解しきれなくてもいいんですよね。何を言っているのか読み取りきれなくてもいいから、何を言おうとしているのかが考えられたら十分というか。

九:そうですね。なんかね、バカなブロガーが「初見で現代美術とただのゴミの区別はつくのか?」みたいな企画をやっていてね、

コ:これ(noteに)書いていいやつですか(笑)

九:良い良い!(笑) 全然書いてください!
  僕それを見て本当にバカだなと思って。文脈ありきのものを勝手に文脈から剥がして茶化してるお前らがゴミだろうって。

コ:(爆笑)

九:だってわかるじゃないですか。普通に考えたら。
  これはきっとアートに限らずですけど、あらゆる表現って送り手と受け手がいて、文脈があって初めて成立するんですよ。そこから剥がしてしまったら全てゴミになるに決まってるじゃないですか。全部文脈があって成立してるんだから。
  例えば「醤油をもう一滴」って言葉もお寿司屋さんで言われるならわかるけど、寝る前に言われたら成立しないじゃないですか。病院の点滴入れる人とか。

コ:例えが遠すぎる(笑)

九:でもそうでしょ?(笑)
  だから言葉を文脈からひっぺがすって行為をした時点で、そもそもの意味からも乖離しているんだぞってことを忘れちゃいけないよね。無自覚にするもんじゃない。
  それこそ今回の展示は、あえて言葉というものをひっぺがした展示ですよね。

コ:そうですね。今回出している「会話のための会話による会話」という作品とかは特にその話に通づるところがあって、街で聞き取った会話だけを使って会話劇を作るというものですね。これは劇中のセリフは全て実際に誰かが話していたものを並び替えて継ぎ接ぎしたものなんです。登場人物らの成立しているかのように聞こえる会話がどんどんチグハグになって言って、同じセリフの使い回しも目立ってきて、最終的にはリズムネタのような会話じゃないものになって崩壊して終わるという。

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コ:これも元々その素材となった会話をしていた人たちが、その時の話し相手に向けての文脈で発した言葉を、僕が勝手に文脈から剥がして並び替えているんです。その時点でさっき九月さんが言った通り、元の言葉の意味って死んじゃってるのと一緒なんですよね。死んだ言葉を並べて、会話が成立しているように見えているけども、この会話劇に登場する全ての言葉は最初から最後まで何一つ意味を持っていないというコンセプトなんですよ。 

九:うんうん。 

コ:まあちょっと作品の説明にそれちゃいましたけど、文脈の話に戻しますね。
  少し前にAマッソ金属バットらの不謹慎系のボケがネットで問題視されたじゃないですか。軽く炎上してて。

九:ありましたね。

コ:ああいう不謹慎系のボケって、僕は面白いものなら全然笑ってしまうんですけど、あれこそ文脈ありきで成立してるものじゃないですか。
  その状況やネタ中流れで、善意としての「言っちゃいけないこと」という前提をお客さんと共有している限定的な状況だからこそ、笑いというものに変わるだけであって、「ダメなこと」であるのはみんな知ってるんですよね。だからそこだけ切り取って「ダメなことだ!」と言われても「そうですよね」しか言えない。

九:「『押すな押すな!』は押せ」みたいな文脈も、切り取ってしまえば「押すな」なのになんで押した!ってなりますからね。

コ:そうなんですよね。
  だから当たり前のことですけど、文脈を取り上げたら本来の意味は死んでしまうし、文脈をでっち上げたら全く違うものにもなっちゃうんですよね、言葉って。

04."食べ方"のわかりやすいものを

九:僕今度サイレントのコントをするんですけど、2時間の。

コ:2時間?サイレントで?!(笑)

九:そう。でも流石に全編通して全くの無言は成立しないなと思って、苦肉の策として前説明とかで架空言語を使うんことにしたんです。僕が存在しない言葉で喋って、翻訳機みたいな小道具を使うことでテロップが投影されるという仕組みで。

コ:なるほど。

九:だからそのくらい文脈を作ってあげないと、言葉の無いものってどこにも乗れないんですよね。

コ:でも架空言語で前説って面白いですね。みんな九月さん以外みんなわかんない中テロップだけが頼りなんですね観客は。

九:そう、だからフェアなんだよね。
  僕が一番良くない表現って「誰かにはわかって誰かにはわからない」だと思うんですよ。そうなると、良い表現って「全員にわかる」か「全員にわからない」じゃないかなと。

コ:お笑いだと顕著にそれが出そうですね。

九:そう。お笑いは「全員わからない」は全然ウケるんですよね。
  養成所とかでも最初はよく「わかりやすいネタをかけ」って言われるんだけど、この「わかりやすい」っていうのは平易なものって意味ではなくて、意味がわからないなら意味がわからないで「これは意味わかんねえものとして受け取れば良いんだ」って割り切れるものとかも、ある種のわかりやすさではあるんですよね。

コ:あーなるほど。

九:要は「食い方がわかりやすいもの」ってことなんですよね。

コ:なるほど。

九:味がどれだけ複雑だろうが、スプーンで食えば良いのかっていうのがわかれば良いんですよ。
  だから蟹みたいなネタはダメですよ。

コ:食べずらい(笑)
  専用のフォークみたいなのないとどうにもできないやつだ(笑)

九:あれを持ってるやつあんまいないんだよ(笑)
  だからどれだけ癖のある食材とか珍しい食材だろうが、串焼きにしてやったら食べ方はわかるでしょう。そういう出し方の工夫としてのわかりやすさって大事なんですよ。わかりやすさは内容のことだけじゃない。

コ:確かに「細かすぎて伝わらないモノマネ」とかは特に親切ですよね。お前がやりたいだけだろ!っていうニッチなものも、伝わる人は「よくそんなところピックアップしたな!」と理解できた満足感を得ながら笑えるし、実際伝わらなくても「誰がわかるんだよ!」と思いながらもその無駄なディティールに笑える。

九:そうなんです。食べ方がはっきり提示されてるんですよね。
  だからお笑いのコンテンツは「細かすぎて伝わらない…」とか「絶対に笑ってはいけない…」とか、楽しみ方をタイトルにそのまま入れちゃうっていう手もあるんだよね。

コ:キャプションをつけちゃうんだ。

九:それこそ一発ギャグもモノマネも、そのまま普通には作らずに「〇〇なモノマネ」とか「〇〇なギャグ」とか、タイトルでフったものが一番やりやすいんですよね。メニューを書いてあげることが大事なのかも。

コ:なるほど。でもお笑いに限らず、そう言ったキャプションをつけてあげやすいものもあれば、つけずらいものもあるじゃないですか。

九:確かにね。

コ:でもあえてキャプションをつけない、つまり説明しすぎないものにもまた違う面白さがありますよね。

九:そうなんですよね。それこそ最近の流行だと「途中で食べ方がわかる」っていうネタが好まれている気はしますね。
  最初の説明は少なくて、1分くらい見てたら「ああ、そういうことがしたいのか」とわかって、そこからどんどん面白くなっていくような。

コ:やっぱりあの手の伏線回収みたいなものは見てる側も気持ちいいですからね。

九:そうだよね。ああいうのは「受け手は作品を見てどういう感情の推移をするんだろうか」という予測が効いてるってことですから。そういうプログラムがたてられているのは丁寧ですよね。

コ:そうですね。そういうのだと僕はシソンヌの「ババアの罠」が大好きですね(笑)

九:面白いですよね。あの仰々し過ぎるフリが効いてるんですよね。

コ:あのホラー調の演出で演技もうまくて、あの手のはフリがデカけりゃデカいだけ分かってても笑っちゃいますね。

九:そう!だからチョロQなんだよ。

コ:コントはチョロQ!(笑)

九:引けば引くほど走るんだから(笑)
  コントチョロQ理論はありますよ。チョロQのいいところって、引く方向が決まれば同時に進むべき方向が決まるんですよね。さっきのシソンヌさんのネタでいうなら怖い雰囲気に引いて引いて、そっちかーい!って。

コ:確かに。わかりやすいな。コントはチョロQっていい表現ですね。

九:僕の中でのハウツーみたいになっていますね。

コ:コントじゃないですけど、今回出している「至る会話シリーズ」という作品も、チョロQ的な要素はありますね。
  この作品は実際に街で聞き取った会話をオチにして、そこに至るまでの会話を勝手に捏造したものなんです。年齢や性別も勝手に変えてる。しかもその前振りにあたる嘘の会話を4、5枚も書いているわけですから、いやでもその架空の登場人物たちの会話だと思っていくわけですよね。そして最後に実在した会話に行き当たり、実は性別も年齢も全然違う人たちのものだったとわかり、寂しさと呆気なさを打ち付けらる。これも長々と前振りしているからこその効果かなって思いますね。

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コ:空想に現実が介入してきて壊される、追い出されるのって、寂しさがあるけど痛快な感じもするじゃないですか。僕は九月さんがたまにメタな演出をネタに使うのにも何かそう言った狙いがあるのかなと思ったんですが、どうなんでしょうか。

九:全然メタ的な要素いっさい使わないこともありますけど、使うときはあれですね。ネタの中身で完結させられない時に無理やり使ってりします(笑)

コ:最終手段の力技か(笑)

九:もうズルですよ(笑)

コ:舞台上からの緊急脱出装置みたいな感じですね。

九:そうそう。
  コンビ時代、公演最後のネタで「だって、俺がネタ書いてるもん」って僕が言っちゃうっていうのがありましたね。相方の彼はずっとコントの役に入っているのに僕だけお客さんに締めの挨拶とかしちゃうの。あれはダメですね(笑)  

05.認識が変わる瞬間、面白いものが生まれる

九:先ほど僕がコンビを組んでいた今井さんの過去のツイートを数点紹介させてもらったんですけど、怖かったでしょう?

コ:怖かったですね。本物の凶器ですね。

九:だから文脈から意味を見失うタイミングですよね。
  僕らが信じている現実から、どのタイミングで壊れるのか。

コ:そうですよね。例えば、僕らは現実から一つ抽出したルール見たいなものを分析して作品の強度をあげるじゃないですか。その中に別の現実を当てはめることで変化するものや生まれるものを探すっていうプロセスは、美術を作ることやコントを作ることって結構近いんじゃないかって、話していて思いますね。

九:確かにね。僕が学生時代学んでいたのが社会学なんですけど、それも結構近い視点なんですよね。あれも社会現象とか世の中のことを研究して、みんなが思っている常識とは違う角度での認識に到達しようとする分野なんです。
  つまり「意外なスポットライトの当て方をしたい」ということなんです。そうなるとお笑いもそうだし、美術もそうだろうし。
  「こうだ、と思っていた物事も実は変身する瞬間がある」っていう魅力に僕は取り憑かれているんだと思います。

コ:そうですね。認識が変わる瞬間の面白さというか気持ち良さがありますもんね。
  そう言った面白さだと、その逆転もありますよね。意味がわからない世界観なのに、その世界の中での”あるある”が垣間見える時に笑いが起こりますよね。

九:ありますね!"ないないの中のあるある"みたいやね。確かにそうなるだろうなっていう納得とも重なる。

コ:その知らない世界の中での仕組みがちょっと見えた時の面白さですよね。知らないものの中に知ってるものを発見するというか。

九:そうそう。
  どっちにしろね、何かを作る時って、現実から依拠しないといけないんですよね。人が何かを見て認識する時って当然現実から物差しを当てるわけですから。
  だから僕らが作ってるものって、きっとお客さんに「どこの現実をどう揺らしているのか」っていう意図が読み取られやすいタイプだと思うんです。その型を読み取って欲しいわけだから。 

コ:そうですね。その型に面白みを見出してるわけですからね。

九:だから僕らは説得力っていうものを高めようとしているけど、やっぱり説得力を無視した人たちには敵わないなって実感はありますよね。先ほど話していた今井さんみたいに。もう、パワー!って感じの人たち(笑) 

コ:勝敗判定とかもうないですもんね。土俵が違いますよね(笑)

06.構造の提示と破壊

コ:構造を組み立てることについての話をしていましたけど、構造を壊すっていう表現方法もありますよね。
  お笑いでいうなら最近だとカミナリの漫才ですよね。あの泳がせてから時差で突っ込むって手法。あの仕組みがまず面白いけども、それを理解したらこっちは先読みを始めるじゃないですか。そしたらあたりでこっちが読んでいたツッコミとは関係ない個人的な意見みたいなものを言い出すっていうあの流れです。
  あれって新しい構造を自分で出しておいて、それを自分たちで壊すわけじゃないですか。すごい乱暴ですよね(笑)

九:あれは理解への暴力ですよね(笑)
  でも逆に理解できないものも、わからないっていう魅力もあったりするんですよね。何か惹きつけられるというか。

コ:どちらも作品の強度には繋がっていますよね。

九:分かるという強さと、分からないという強さってね、矛盾するようで相補的ですよね。どっちもないといけないな。

コ:作品の強度についての話なんですけど、例えばコントとかだと細かい演技とか台詞回しに気を使うことで、作品にリアリティを出すことができますよね。でも別にそれをしているからと言って、リアルを描こうとしているわけでは一切ないじゃないですか。

九:そうですね。そう思います。

コ:でもそこにリアリティってものがあるからこそ作品の強度が上がるんですよね。その存在しない世界に入り込みやすくなる。
  それって美術でも単純な描写力とか展示空間の作り方とかへの工夫で、そう言った意味でのリアリティを高めることができるんですよね。伝えたいところへ案内する能力の高さで、作品の強度が決まるのかもしれないですね。
  だからさっきの「食べ方のわかりやすさ」と同じように、どこへ連れて行こうがいいけれど、そこへの道案内は丁寧に成立しているべきですよね。

07.物語を辿る習性

コ:何か物事から物語を探してしまう習性って、この時代を生きてる限り絶対あると思うんですよね。どこかしらで絵本、小説、映画とかに触れているもんだから、現実をそちらに結びつけてしまうというか。

九:うん、あるある。

コ:今回僕がやった他人の会話を聞き取って色々考えるっていう行為自体はみんな一度はやったことがあると思うんですよ。

九:そうね。この展示はそれを拡張した感じだもんね。

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コ:そうなんです。だからこれもある種いきすぎた"あるある"なんですよね。
  お笑いでいうと、かが屋とかのネタって日常のあるあるを拡張した笑いをやっていますよね。その描写の細かさや空気感でジワッと笑いをうむ、ものすごくテクニカルなことだなと思います。

九:そうですよね。ものすごく地に足がついてる。 
  あの手のネタはいかに鑑賞者の想像力を揺らすかですよね。

コ:そうですよね。逆に言ってしまえば鑑賞者の想像力に強く依存したものづくりになるわけですからね。ほとんどの人があの空気感に共感できるだろうという信頼の上で成り立つ芸ですもんね。

九:自身がないとなかなかできないですよあれは。

コ:だからこそあれを演出やリアリティで成立させているのがすごいですよね。
  そういったものに対して九月さんのネタって、舞台設定は現実のこの世界じゃないですか。だけど、どこかおかしな仕組みが入り込んでいるんですよね。

九:うんうん、そうですね。

コ:そこに陰湿さというか卑屈さというか、内向的な自己を昇華しているんですかね。

九:そういうところも少しありますね。
  一つ僕が自分のネタに対して思っていることがあって、それは「すごく田舎の人っぽい」ってところなんですよね。僕が青森出身なせいか、自分の発想ってどこか土着的なんですよ。つまり、都会的な匿名性であったりとか開放性ではなく、田舎特有の閉鎖的でジメッとしてる描き方が多いんですよね。
  だから僕のネタをたまに「怖い」っていう人いるんですけど、きっとその怖さって通り魔とかそういうものじゃなくて、田舎の悪い風習みたいな怖さだと思うんですよ(笑)

コ:確かに!(笑)
  何かのせいで狂ってしまったというか(笑)

九:そうなんですよ。だから「舞台へ狂った奴が登場する」というより「狂った奴はこの中にいる!」なんですよね。

コ:そうですよね。僕が知ってる限りでも、九月さんのネタって色んな狂った人が出てくるじゃないですか。

九:そうですね。いっぱい出てきます。

コ:でもその狂人たちって、どのネタでも”元”常人なんですよね。

九:そう!そうなんですよ!すごい、ありがとうございます。

コ:よっしゃあ!(読み取ってやったぞという喜びのガッツポーズ)

九:ほんとそうなんですよ!生まれつき変な奴はいないんですよ。

コ:そうですよね。皆仕方なく、抗えず狂ってしまっているんですよね(笑)
  しかもどの狂人もまともさの片鱗は残っているんですよ。

九:そうなのよ!もうネタバラシをしてしまうと、僕の狂人系のネタは全部作り方は一緒なんですよね。
  まずフリの段階で常人に見せる。そこから狂っているところを提示するんです。そしてそいつに自分語りをさせるんですよね。なぜ狂ったか、どういう意味を持ってそれをしているのかとかね。それでネタが終わるんですよ。
  だから僕のやってることって狂人博覧会なんですよね。

コ:でも全員にちゃんと理由があるんですよね。

九:そう。僕がそれを描いてようは何を言いたいのかというと、現実の捉え方って人によって全く違うし、それぞれがそれぞれの視点に歪みを持っているんですよ。でもその歪んでいる部分にもきっと全員理由はあるっていうことなんですよね。

コ:コントに登場する人物を丁寧に描いていますよね。
  先日あった喫茶フィガロでの単独公演「箱の中のニムロッド」とかでは、ネタとネタの間にブリッジとして、ネタに登場した人たちから後日談のようなお便りが届くっていうのをやっていたじゃないですか。あの演出って、そのネタが終わった後のその登場人物たちの人生が続いていることを意識させられてすごくいいなと思ったんですよね。他でもあまり見ないし新しいやり口ですよね。

九:あの作風はカフカ時代からあったんですよね。
  お笑いは一つのネタが3分5分、長くて10分程度なんですよ。演劇なら30分とか1時間とかかけて掘り下げていけるけど、お笑いはそれができない。だったらその登場人物の人生で一番面白い瞬間を切り取るしかないんですよね。
  例えば「飲酒運転で逮捕された学校教師」をネタにするとしたら、「酒飲んでる時」なのか「捕まる瞬間」なのか「取調べ」なのか「学校に謝りにいく時」なのか、どこの5分が一番面白いかなって考えるんですよね。この場合だったら多分「学校に謝りにいく時」かなみたいに。

コ:なるほど。そのシーンならそれまでの流れを使えたりもしますもんね。

九:でも演劇だとこれが全部できる。全部やれば、謝りにいく時の面白さをより際立たせるということも可能だと思うんです。
  それが僕らの場合は尺の都合でできない。ならば何らかのギミックを使って、登場人物に縦の時間の重みを出さなきゃなって思うんです。それを考えた結果、ネタの間に後日談を描くことで解決したんですよね。 

08.丁寧なエゴで道案内をする

九:色々と昔は迷走していたこともありましたけど、やっと作り手としてのエゴの部分をようやく伝わる形で出せるようになったなと思いますね。

コ:そうですよね。僕も木彫をやっていた時は本当にただただ楽しいからやっていただけで人に見てもらう必要はなかったし、人に見てもらう理由もなかったんです。でも、次第に自分が作るからこそ面白いものを作って、面白く発表しようと考えるようになって今のようなものづくりになっていきましたね。

九:そうなっていきますよね。

コ:今回の展示でいうなら鑑賞者の順路とか動線を考えるという行程は、さっき話していた受け手の感情の推移の話にもつながると思いますね。
  作品はまず物語調に進んでいく「至る会話シリーズ」から始まり、創作の会話から実在の会話へ繋がる体験をしてもらう。そこから「会話のための会話による会話」という作品で、実在の会話をコラージュした架空の会話を見る。そして最後は「騒がしい輪郭シリーズ」から、そもそもの会話という素材をじっくり楽しんでもらうという流れを作っているんですよね。

九:そういうどう見られるか、どう見て欲しいかっていうのは、ちゃんと段取りしていかないといけないですよね。

コ:(タイマーを見る)えー、一時間半喋っております(笑)

九:喋りましたね。

コ:では、九月さんはまた12/16(月)から12/18(水)までyugeで軟禁コント生活をしますので、そちらもぜひよろしくお願いします。

九:入場料と別に寄付金箱も置いておくから、みんなよろしくお願いします。俺、もうすぐ引越しやぞ!

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