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人生の分母と感度

子供の頃の1年間と、ここ最近の1年間。皆さんにとってそれら1年間という時間の大きさは、どの様に映っていますか?
えんじろうにとっては、同じ1年という期間が随分と変化していると感じます。それも一方的でなく絶えず伸び縮みするような。今回はそれらについて考えてみようと思い、筆を執りました。今だったらキーに手を置きましたというべきなのかな?


答えは分母の違い?

黒板のたくさんの分数みたいの

生まれたばかりの子供にとっての1年間は、人生という分母の全てとイコールです。つまり1/1(対象の1年/人生の1年)しかし次の1年はというと、1/2(対象の1年/人生は2年)となり、人生の分母から見たら一気に半分の時間になるわけですよね。
だから人生を重ねれば重ねるほど、1年間という切り取られた時間の占める割合は小さなものへと変わってゆく。大人の1年間がどんどん短く感じられる原理はこの考え方のせいなのだと思っています。

人は1度でも「全体」を感じてしまうと、その全体に対して比較するようになってしまうものなのでしょうね。平均とか合計とか、今えんじろうはない頭を必死に使って苦手な数学をイメージしています(笑)

比較対象が間違い

そもそも最新の1年を考えるのに、人生のすべての時間を基準にすることが間違っていると思うんですよね。1年を比較するなら相手もまた別の1年であるべきでしょう。だからえんじろうは、1年を思い起こすときにはその前の1年を引き合いに出すようにしています。

ところが違和感

上下するグラフ

不思議なことに、えんじろうのここ数年間は1年という大きさが毎回変化していると感じます。いやきっと、皆さんも別の1年との比較をしてみれば、同じ様に感じられるのではないでしょうか?
分母を揃えたはずなのに、違うのはなぜだろうか?

答えは密度の違い?

密度の違う文字

これは過ごした1年と比較対象の1年との感覚の密度の差から来るのではないだろうか?そんな風に感じました。
年により多くの出来事があった年もあれば、動きが少なめで過去と似たような出来事の繰り返しが多かった年もある。そんな違いから時間の感覚は変化するように思います。

時間が長かったと感じることが良いことなのかは別問題だと思いますが、人の感覚は一定ではないし、同じものに触れたとしても、経験や関心の度合いで大きく異なった感じ方になるから不思議ですね。

秋空のキャンバス

青空の写真

この秋の一面の青空は時間。そして白い雲の絵の具を含んだ筆を手にしたあなたがここにいる。
さあ、あなたならこの秋空のキャンバスにどんな雲を描きますか?



#enjiro #えんじろう
#時間 #感覚 #密度 #比較 #空

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