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ボッティチェリの「プリマヴェラ」を分析する知的冒険の書(前編)

タロット、ダンテ、ランディーニ、フィチーノ、ロレンツォ・イル・マニフィコという連鎖

昨年、今年と東京ではボッティチェリの作品が固めて展示される展覧会が続くという、ある意味、奇跡的なことがありました。一つは昨年3月から6月にかけてBunkamuraミュージアムで開催された「ルネサンスとボッティチェリ フィレンツェの富と美展」で17点のボッティチェリ作品(「受胎告知」「聖母子と洗礼者聖ヨハネ」が含まれる)が集まる貴重な機会でした。ところが今度は今年の1月から4月にかけて東京都美術館で「ボッティチェリ展」が開かれ、今度は20点以上のボッティチェリ作品(それも「ラーマ家の東方三博士の礼拝」が含まれる)が集まりました。この2回で40点ものボッティチェリ作品を見られたなんて、やはり日本すごいかもって思ってしまいました。(変かな?

▶︎日本人ってボッティチェリが好きよね!

日本人にとってボッティチェリはルネサンス美術の画家として人気作家というか、特別な存在のように感じます。

欧州でのボッティチェリ評価は19世紀後半のウォルター・ペイターの「ルネサンス」の中に見られる再評価(でも、その特有な作品で愛好されるべき画家だけど、偉大な画家たちに比べれば二流、という評価ですけどね)と、それに続くラスキンの評価によって認められるうようなったといえるでしょう。
日本では、ここまで人気があるのがどこに由来するのかはいまいちはっきりしません。たしかに矢代幸雄氏の「サンドロ・ボッティチェルリ」は有名ですが、日本語への翻訳は書かれてから半世紀も後の1977年を待たなければならなかったことを思えば直接的に一般に影響したとは思えません。しかし、日本にはそれ以前の明治末期から大正初頭あたりから、海外のラスキンによる評価などが日本の研究者によまれ、けっこう紹介されているらしいので、そういう地道なところから知られていったのかもしれません。それは最終的に、ボッティチェリに関する資料はそれほどない中で辻邦生氏の評伝小説「春の戴冠」のような長大な小説書かれたることにもなるのです(ちなみに、この小説の出た年はやっと矢代幸雄氏の労作が日本語訳された年でもあります)。

日本人はダ・ヴィンチ、ラファエロなどの画家も知ってますが、「ヴィーナスの誕生」や「プリマヴェラ」のような、もちろん背景には神話が存在しつつも、それを知らなくても楽しめ、日本人が好みそうな華やかさと同時に静けさを両立させているこの画家に惹かれるものがあるようです。


▶︎タロットから「プリマヴェラ」へ

さて、今回紹介する本「ボッティチェリ《プリマヴェラ》の謎 ルネサンスの芸術と知のコスモス、そしてタロット」は、代表作「プリマヴェラ」の構図と描かれた内容がどういう目的で描かれた何を示しているのかを120ページほどの紙幅で100以上の図版を使って謎解きする、まさに「知的冒険の書」です。
著者のクリストフ・ポンセ氏はソルボンヌで法学と政治学を修めたあと、テレビ局のプロデューサーをしつつ、フィチーノの哲学研究に入り、その後、学術研究所の所長となり、この本でも取り上げられているマルセイユ版タロットを扱ったテレビ番組も作っているという経歴の持ち主です。

この本では、15世紀末にフィレンツェで作られ、その後18世紀にかけてマルセイユで多く印刷されたマルセイユ版タロットカードの1枚、「恋人」のカードに描かれた2人の女性に挟まれた1人の男性の図像の意味合いが、当時のフィチーノの思想に基づく「快楽」と「知」の選択を表すことを示し、その構図が「プリマヴェラ」の中央の女性2人(ウェヌスとフローラ)とその2人見つめる先にいるはずの鑑賞者であり、その2人の間に立つはずの男性との構図が元にあるという推理をつなげ、その3者の具体的モデルと関係性へとも踏み込んでいきます。

この本で論じられる内容の特徴は、タロットの図像に注目したこと、プラトン哲学とキリスト教神学をつなごうとしたフィチーノ哲学を図像の中に読み取ろうとしたこと、にあるでしょう。
つながりを明らかにするプロセスもなかなかスリリングですが、それを細かく図像を使って説明もしてくれ、図版もきれいなので、読んでいてとても楽しい本です。
単に画家ボッティチェリのファンだけでなく、ルネサンス時代の哲学、美術に関心のある人はみな楽しめるのではないでしょうか。表題に「知のコスモス」という言葉が入っているのも偽りなしです。

訳文はとてもわかりやすく、なんだかあっという間に読めてしまいます。だから、逆に疑問を持たずにそうなんだ!と思ってしまいかねない罠はありますが。。。
(あ、あと、ピエロ・メディチの没年やら、参照方向の間違い(上述って書いてあるけど、実際は下記)が散見されるのはちょっと残念)

▶︎閉じているようで開いている本

本には「開いた本」と「閉じた本」があると言われます。「閉じた本」というのは著者の明確な意見や結論がありそれに読者はそれに導かれるもの、「開いた本」は疑問や問いかけに対した明確な答えは与えられず、問いが重ねられていくことで道は進みますが読者に考えさせるものです。

この本に関していえば、著者は最後に明確に「プリマヴェラの謎は解明された」と宣言しているのを見れば「閉じた本」であるかのようです。
しかし、読んでみると、著者のめくるめくような展開に乗せられつつも、様々な疑問や謎が湧いてくる本でもあります。それはスリリングさと表裏一体のものともいえ、学術論文としてみた場合には弱みかもしれません。(言い過ぎかもしれませんが、場合によってはテレビ人だったことによる外連味の強さかもしれません)

しかし、そうやって湧いてくる疑問さえも、いろいろなことを考えさせてくれるところが面白いので、いくつか挙げてみたいと思います(当然、私の誤解、誤読や、無知ゆえのものもあるかもしれませんが)。

ってところで、少し長くなってきたので、私のいろいろ考えた謎、疑問は<後編>に回したいと思います。

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