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憲法は理念なのか現実的なものなのか(極私的憲法改正論(追補)

以前、書いた極私的憲法改正論は、改正反対派の自分として、現状の憲法をめぐる意見ってこんな風にばらついているのではないか、政治家や政党の考え方がどう捻れているのか、そもそも日本がそのためにどれほど手を抜いてきたのかを私なりに書いてみました。

今回の追補では、やはり第9条周りについてですが、そもそも憲法の立場を何かをまず明確にすべきではないか、という話をしたいと思います。

▶︎アメリカの独立宣言

もうすぐ250年にもなろうかというアメリカ独立の歴史だけども、トマス・ジェファソンが草した独立宣言は今でもアメリカの建国の理念を示したものとして影響がある。
この中には、後の福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉に影響を与えたという、

All men are created equal.

という言葉が出てくる。

すべての人は平等に造られた、

ということだ。
アメリカがなぜイギリスから独立したのかというと、植民地として虐げられていたこともあるからこそ、そこから独立すると同時に「我々はみんな平等」という理念は独立のための宣言として必須だったわけだ。

でも、この場合の「平等」には相当の保留事項がたくさんあったというしかない。アメリカ自体が現実には原住民を虐殺して領土を広げ、黒人を奴隷にして労役に酷使していたわけだから、それを思えばどこが「すべての人は平等」やねん!どの口が言うとんねん!という話でもある。

ただ、この「平等」はプロテスタントとしての宣言というべきで、宗教的に人は平等であるということを示してるに過ぎないという言い訳できるわけで、社会的な不平等は知ったことではなかったのだろう。(その点では、福沢諭吉の言葉が意味するのも今ではちゃんと振り返られないけど、元々平等だけどその後には不平等になっちゃうからみんな勉強しようね、って言葉だし)

ただ、アメリカが独立宣言で宣言した「すべての人の平等」という概念は、元々がどうであったにせよ今に至るまで影響を与えているのも事実だ。
アメリカが抱えてきた不平等、それは奴隷解放であり、男女平等と女性参政権であり、公民権運動であり、を進めるための理念としてのエンジンは、この独立宣言の「我々は平等である」という言葉であったのも間違いないところだと思う。
つまりは現実はそうなってないけれど、それを現実化するために、独立宣言という建国の言葉にあることによって、単なる理念でなく、成し遂げなければならないと思わせるだけの力を持っていたのだといえる。

▶︎憲法って国によってバラバラよね

さて、これでやっと憲法の話に戻ってきます。
まずは、よく誤解されているところから入ってみたい。

改憲論議でしばしば見かける話に、日本は今まで憲法を一度も改正してこなかったのが異常で、欧米の憲法はけっこう頻繁に改正している、というものがあります。
この事実自体は間違いではありませんが、ここに一つ錯誤があるとするなら、各国の憲法は内容レベルが相当の違う、ということです。

憲法というのは枠組みが大体決まっていてどこの国も似た内容なのではないかと思いがちですが、読み比べてみればわかりますが、国によって全然違います。すごく細々したことまで決めてある国も多いのです。たとえば議会の名称、構成から、その定員まで。つまり、定員を変えようとすると憲法も改正しないとダメなわけですよ。そりゃ、それなら憲法を改正する頻度も多くなるでしょう。各国がどんなスタンスでどのくらい細く憲法で規定しているかを調べずに改正の回数だけを比較するのがいかにナンセンスであるかがわかります。

つまり、国によって憲法に定められていることが、とても現実に密着したものから、もっと規範や理念に至るまで幅広く扱われることがあり、それが国によって違いがあるということをまず認識しないといけないわけです。

▶︎憲法は理念か、平和は理念か

ってことで、じゃあ、日本の憲法はどうなんだろうか、というところに至るわけです。

改憲論者の理由にアメリカからの押し付けだから、という意見がありますが。どうしてあれが理由として成り立つんでしょうね?どこかの意見が強かったとしても内容が良ければ改憲する必要はない、と思えば、押し付けだから、なんてのはくだらない言いがかりで、ちゃんと内容で指摘しろよ、と言いたい。

それは置いといて、そのようなアメリカの占領の経緯も含めて憲法が作られたのは確かだから、ある意味、とても理想主義的な(そして一部の人々には腰抜けな)憲法の内容になっているのは確かで、つまりは理念的な要素が強いといってよいはず。

それなら、たとえば改憲論者が現実から乖離しているから改正が必要という第9条だって、上であげたアメリカ独立宣言の「すべての人は平等」としての理念なのだと思ってよいのではないか。そして、だからこそ今まで自衛隊は違憲だ合憲だと論争しつつもごまかしてきた、と考えるべきでないのか。
世界情勢としては自衛隊は必要だと思っても、平和を祈念し戦争と軍隊放棄は宣言してもよいのではないか、という論理は成り立つか、という話だと思うのです。

現実主義者はそれを理想主義的でそんなの嘘だろ!っていうだろうけど、それをいうなら「すべての人は平等」だってそうだろ!といえるし、上で書いたように、それが重要な影響を与えうるものに宣言されていることが、200年かかっても何かを変える時のバックボーンになりうる、という現実のパワーをどう解釈するのかと言いたい。
そして同時に前回書いたように、この第9条がそのようなパワーを持つため、つまりは戦争をなくし軍隊をなくすために、日本は憲法を作ってから国際的にとてもじゃないけど力を尽くしてきたとはいえないことを憾むのです。

つまりは、憲法を改正する方向へと向かわせているのは、理念はあっても実行はなかった呪文化した人々だったのだ、と。

ということで、私は現在ちゃんと論議されるべきなのは、憲法は理念なのかもっと現実に合わせたものなのか。そして、理念としての日本の平和主義をもしいじったらその後本気で考えるのかねみんなは、、、ということなのです。

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