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美術を鑑賞するってどういうことをいうんだろう? 美術展という錯覚させるシステムを考える

上野では連日長蛇の列ができた都美術館の「若冲」展も終わり、合計44万人、1日あたり1万4千人強、正倉院展並みというすごい人出だったようですね。
待ち時間も最長5時間20分程度までなったよう。
でも、もうみなさんは忘れているのかもしれませんが、昨年の同時期東京国立博物館での修復後初の鳥獣戯画の展示は6時間待ちって掲示が出たことを、、、

今回の若冲展は生誕300年記念とのことですが、滅多に一緒に展示されない、というか、そもそも全作品を固めて展示もされない、「薬師三尊像」と「動植綵絵」が一堂に会している上に、展示期間は1ヶ月しかないのですから、あの行列もしかたないところなのでしょう。
しかし320分待ちとか聞くと、そうまでして見なきゃならないのか、という素朴な疑問も湧いてきます。

▶︎昔、みんなは美術は見られなかった

当然ながら、昔は美術品なんてものは庶民が見られるものではありませんでした。西洋であれば、例外は教会などの公共の場に飾られる宗教画の類で、みんなが神の威光や意思を伝える手段として皆が見える場に必要でしたが、それ以外の絵画は基本的に貴族や上流階級の依頼で書かれて、その邸宅に飾られるわけで、限られた人々のためのものでしかなかったわけです。
日本の場合も、仏教の教えを伝えるような絵画は公共のものだったでしょうが、それ以外の絵画はやはり注文した人のためのものであり、みんなが見られるものではありませんでした。
そして、場合によっては、貴重な美術品を見られるというのはそれがステータスの承認や証明であり、だからこそ着飾ってみなきゃならなかったりもしたわけです。

なにを今更というか、当たり前のことに思えますが、そうやって人に見られない美術品が、美術館または美術展といった枠組みに組み入れられ、どこかに固めて所蔵されたり、所蔵されているところから集められて展示するシステムができたこと、というのはすっごい大きな転換ですよね。

▶︎みんなが見られることはほんとにいいことなの?

すばらしい美術作品をたくさんの人がそれほどお金をかけずに見られるようになったこと、っていうのは、素朴によいこと、といえるのでしょうか?
たとえば、知識の公共化として図書館という存在があって、そこにいけば、みんながいろんな書籍などコンテンツに触れられるようなった、というのと同様に考えていいのでしょうか?
私は実はそう思えないんですよね。もちろん、みんなが見られることの利点は莫大だけれど、実はその大きさに隠れてけっこう大事な点が見落とされている、忘れられているんじゃないかという気がするのです。

▶︎美術作品を鑑賞するって?

先ほどとりあげた若冲展。大混雑だったわけで、もちろんゆったり見るなんてことはできませんよね。いかに「薬師三尊像」と「動植綵絵」の展示配置に気を配っても人だらけだったら、その効果って発揮されたんでしょうか?内覧会や一部の人だけのために役立っただけ、という気もしなくもないですね。
そしてそんな中で見て、それは鑑賞として成立してるんでしょうか?単に見たな!っていう体験だけのための時間であって、鑑賞ではないのではないでしょうか?

ちょうど同時期に、同じ上野の西洋美術館では「カラヴァッジョ展」が開催され、こちらにも近年発見され世界初公開の「法悦のマグダラのマリア」が展示されてますが、こちらはガラガラで余裕をもって見られるようです。
貴重な美術作品を鑑賞するとして、明らかに後者の方が恵まれてますよね。。。

で、私はだからといって、混んでない美術展や美術館ならいい!と主張したいわけでもないんです。。。

▶︎どうすれば鑑賞したといえるのか?

西洋絵画のように額縁に入っていて平面のものはまだ美術館のような設備内でも鑑賞できそうですが、それ以外の美術品って基本、見えない場所が存在がしますよね。それで鑑賞できたといえるんでしょうか?

彫刻であっても360度周りが見られないと意味がないでしょう。

工芸品なんかで、皿や匣や香合や螺鈿装飾の箱やら、、、みんな中も裏も見えてこそのものですよね。

茶道なんかでお道具拝見するのも、まさに持った時の感触から姿からを見るからこその経験であり、それが稽古になるんですよね?

絵巻物や草子など、一部分だけ見せられて、本当にそれが意味があるんでしょうか?

結局は、

とても普段は見られないものを千何百円かのお金を払って、ごくごく一部を体験させられて、それで鑑賞したかのような錯覚を与えられている

ということはないんでしょうか?

もちろん端金しか払ってないんだから、といわれればそれまでですが、それを美術鑑賞した、またはある作品を鑑賞した、と思ってしまう大きな間違いに気づくべきではないんでしょうか?

▶︎オリジナルか複製か

きっとオリジナル信仰の人はいうでしょう、それでも本物を目にしたことは大きいと!

ほんとに!!??と私は言いたいのです?

先日、フェルメールも自分の絵画に描いた天球儀と地球儀の展示、について書いた時に書きましたが、あの時不思議に思ったものです、目の前に現物があるのに、手元の高精細度ディスプレイに解説がついたものをみて、手でグリグリ動かし、ズームして見ている時間の方が、本物を見ている時間よりも長いんですよ、みんな!!

一方で普段の展覧会を見ていても感じます。

工芸的な作品が展示されていても、多くの人は正面側からしかみない。斜めからとか横からとかさえ多くの人はみないのです。

絵画の場合も、距離を変える人はまれにいますが、姿勢を低くしたり、ひざまずいたりして、絵画の下の方を見てみる、といったことをする人はめったにいません。

なんで?!

どうして?!

そんな限られた見方をして鑑賞したことになるのか?やはりそれはオリジナルを自分の目の前に置いたという体験だけではないのか?そして一方では、オリジナルより高精細度な画像とそれを動かせるインターフェースがあればオリジナルでなくていいんじゃないのあ?!という気がしてくるのですが?

みなさん反論はありますか?

徳島県鳴門市にある、陶板で名画を再現している大塚国際美術館が人気だといいます。ちゃんと歴史的な流れに応じた展示がされつつ、歴史的名画の複製が見られる施設です。きっとオリジナル信仰の強い人はバカにしてるんでしょうけれど、**このような施設で、本物に近いものに触れたり、間近に見られる方が、美術品を鑑賞できている、といえないんでしょうかね? **

将来、若冲の作品も高精細なデジタル画像で大きな画面で見られるようになれば、その方が5時間並ぶよりもちゃんと鑑賞できるとはいえないんでしょうか?

将来、3Dプリント技術がさらに発達して、茶器や香合のようなものは比重もバランスもオリジナルと同じ持ち重りがする材質で、表面はオリジナルと同じように見えるプリントができるようになった時、美術館のガラス越しに裏もちゃんと見えないような展示でみるのと、その複製を手にとって重さの感覚や大きさを体感するのと、どちらが本当に鑑賞できたといえると思いますか?

みなさんはどう思われるのでしょう?

そして、今、美術館などの展覧会に千何百円か払って、場合によっては並んで、時には混雑した会場内で美術品を鑑賞する時、自分は何を求めてそこへ行っているのか、何を得たときに満足できるのか、一度、振り返ってみませんか??

この件については、さらに考えたいポイントがありますが、それは別項に譲ります。

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