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坂東巡礼記8 慈恩寺(札所12番)

華林山 慈恩寺

坂東巡礼第2日の最後は、慈恩寺へ。

札所11番安楽寺から札所12番慈恩寺は、車で1時間程度でした。

慈恩寺……

ジオン寺?……

ジオン?……

と聞くと、やはりこの演説を思い出してしまいます😅

さて、何故か期待に胸を弾ませながら、慈恩寺に着きました😆。

境内そのものは小規模な寺院です。

慈恩寺は、華林山最上院ともいい、天長元年(824)に慈覚大師によって開かれた天台宗の古刹。江戸時代には徳川家康から寺領100石を拝領しておりました。

本堂(観音堂)です。

この寺院の特筆すべきは、慈恩寺の敷地内にある十三重霊骨塔です。

三蔵法師


境内の十三重霊骨塔には、中国の古典『西遊記』の三蔵法師玄奘の遺骨が分骨され、安置されています。

なぜ、玄奘の遺骨が慈恩寺にあるかといいますと、日中戦争時の1942年(昭和17年)12月に日本軍が南京で発見した玄奘の遺骨の一部が戦後この寺に奉安されることとなったようです。

公式ホームページには、次のように書かれております。

昭和17年12月、第二次世界大戦のさなか、南京を占領していた日本軍が、中華門外に駐屯し、稲荷神社を建立しようということになり丘を整地していた時に、石棺を発見しました。石棺には宋の天聖5年(1027)に三蔵法師の頂骨が演化大師可政によって長安から南京にもたらされたことが記されていました。日中両国の専門家が調査の結果、玄奘三蔵法師の頂骨そのものであることが確認されました。

中国では偉大な人物や国王の墓に、数々の価値ある副葬品が収められるのが通例であり、盗掘が行われ、墓が荒らされたままであったことが南京への葬られたことの原因と考えられます。

発見の翌年、頂骨は仏像・銀・錫製の箱等の副葬品と共に南京政府に還付されました。翌昭和19年には、南京玄武山に玄奘塔が完成し、盛大な式典が行われました。

玄奘塔完成の式典の際、「法師は仏教の一大恩人であり、日中の仏教徒が永遠に法師の遺徳を大切にしよう」という趣旨で分骨され、日本仏教徒代表の倉持秀峰氏に手渡されました。こうして霊骨は日本にもたらされることになりました。

来日した霊骨は当初、仏教連合会の置かれていた東京、芝の増上寺に安置されましたが、第二次世界大戦末期、東京では空襲が始まっており、万が一灰燼に帰することがあってはならないということで、一時は倉持会長の住職寺である蕨市三学院に仮安置されました。

しかし、三学院も東京に近く、安全が計り難いということで再度、日本仏教連合会では疎開先を検討し、慈恩寺に仮奉安することになりました。当山の第五十世大島見道住職が、日本仏教会の事業部長であったこと、慈恩寺が平安時代に慈覚大師の開基であり、三蔵法師ゆかりの長安の大慈恩寺からその名をとって慈恩寺と名付られた由来もあり、歴史と格式のある寺院だったことが慈恩寺に奉安された理由と考えられます。

昭和19年12月、寛永時に於いて日本仏教連合会主催の下に、日中各界の有志の臨席を得て、法要を行った後、慈恩寺檀信徒の恭迎の中、慈恩寺に奉安されました。

昭和20年に我が国は終戦を迎え、仏教連合会では、いわゆる疎開先であった慈恩寺から正式な奉安の地を決することになっていましたが、国民の生活も安定しない時勢でありましたので、そのまま昭和21年を迎えました。しかし、戦時中に中国政府から贈られた霊骨ではありますが、戦時下の事で、このままで良いのか・・という問題が提起されました。

この頃、慈恩寺に寄宿しておられた仏教連合会顧問の水野梅暁師が新中国の蒋介石主席と親交もあり、主席の意向をお伺いすることになりました。

昭和21年12月、霊骨奉安3周年記念法要の際、蒋介石主席の意向が伝えられました。

「霊骨は返還に及ばないこと、むしろ日中提携は文化の交流にあり、日本における三蔵法師の遺徳の顕彰は誠によろこばしいことであり、しかも、奉安の地が法師と何等かの因縁の地であるからは、この地を顕彰の場と定めては」との意向であり、こうして正式に慈恩寺の地に霊骨塔建設が決定したのであります。

以上、ホームページより(http://www.jionji.com/)

畦道を進むと徒歩10分くらいのところに有ります。

なお、三蔵法師玄奘の遺骨は、1955年(昭和30年)に日台友好のため台湾に分骨され(現在は日月潭の玄奘寺に奉安)、1981年(昭和56年)には玄奘の属した法相宗の薬師寺にも分骨されているようです。

霊仙

三蔵法師とは、尊称で、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶(法師)のことです。

ということは、西遊記の三蔵法師(玄奘三蔵)は数ある三蔵法師のうちのひとりです。

ちなみに、歴史上、日本人から三蔵法師の尊称を貰った方が1人います。

最澄、空海とともに唐に渡った霊仙という方です。

近江出身(阿波出身との説もあり)の興福寺僧・霊仙は804年(和の延暦23年、唐の貞元20年)、最澄や空海と同じ遣唐使の一行として唐に渡りました。当時45歳でした。

おそらく、804年の遣唐使は、霊仙が日本側の僧侶団のトップで、最澄や空海といった若手のエリートを引率していたのではないでしょうか。

霊仙は、長安で仏典の訳経に従事し、その功績を認められ憲宗皇帝より811年(唐の元和6年)「三蔵法師」の号を与えられます。

時の唐の皇帝・憲宗は仏教の熱心な保護者であり、霊仙も寵愛を受けて、大元帥法の秘法を受ける便宜を与えられるが、仏教の秘伝が国内から失われることを恐れた憲宗によって、日本への帰国を禁じられたようです。

再び日本の地を踏むことはできませんでしたが、もし霊仙が日本に戻ってきていたら、どのようになっていたのでしょうか…。

近江に比叡山や高野山を凌駕する琵琶湖沿岸の仏教都市ができていたのかもしれませんし、剣山を中心に仏教都市が栄えたのかもしれませんし。

歴史には『if』はないですが、想像するだけで楽しいですね🎵

慈恩寺観音

慈恩寺に関しましては、ほのぼのとした動画はありませんでしたが、この方の動画をあげておきます‼️

御参考までに😌

評価 ☆☆(星2つ)

参拝後の評価は、星2つ(☆☆)でした。本堂のある境内だけなら、星1つ(☆)ないし星1つ半(☆★)だったのでしょうが、玄奘の霊骨塔があるので、近くにきたら参拝すべき寺院ということで星2つ(☆☆)にしたのだと思います。

玄奘の霊骨塔があるなら、それだけでマストの寺院として星3つ(☆☆☆)とすべきとも考えられます。しかし、玄奘の遺骨は、薬師寺にも分骨されておりますし、他の方には、薬師寺に参拝すべきとお勧めするでしょう。

ですので、埼玉に来た際には、立ち寄って欲しいという意味あいを込めて、星2つ(☆☆)です。

これで坂東巡礼第2日が終了しました。

埼玉は、寺院の宝庫でした。これだけの寺院に加えて、秩父三十四観音があるのですから…。

百観音巡りのうち(四国巡礼を合わせて百八十八観音のうち)、三十八が埼玉県内にあることになります。

まさに、埼玉県は、観音様に護られ、歴史的にも武家社会として観音様を守ってきた素晴らしい風土ではないでしょうか。凄い😆

次回はGWの合間に参拝する予定を立てつつ、帰路につきました。

宗派 天台宗
本尊 千手観世音菩薩
開基 慈覚大師
創立 天長元年(824)
住所 埼玉県さいたま市岩槻区慈恩寺139
駐車場 あり(無料)
電話 048-794-1354


閻魔堂

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