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2011年3月11日、あの日僕は東京で就活をしていた

「なんか面白いこと起きないかな」

そんなことを思いながら次の企業説明会が行われる最寄駅の近くのココイチでカレーを食べていた。

2011年3月11日12時過ぎ。

この時に食べていたカレーを最後に、24時間以上まともなご飯に有り付けないことをこの時の僕は知らない。

企業説明会の日程がびっしりと書かれた手帳を眺めながら、冒頭の言葉を店内の誰にも聞こえないようにボソッとため息混じりに口に出す。

内定はおろか、最終面接まで進んだことがないまま何十社とエントリーシートを書き、何十社と企業説明会へ行き、数多くのお祈りをされてきた。

このままお祈りされ続けたら、生き仏にでもなっちまうぜ!なんて冗談混じりに数少ない友達と話したりもした。

母子家庭の僕は私立大学に行くのも大変なのに、私立大学へ通うようにしてくれた。しかも奨学金なしで。

けれども母から「受かったの?」「交通費振り込んだからね」と連絡が来るたびに少しづつ胸が苦しくなった。

何十社にもお祈りをされ、世間から必要とされてないんじゃないか?という苦しさと、母の期待に応えなければというプレッシャーの板挟みにあった僕は

面白いこと、楽しいことは自分で何かを起こさなければ起きないということを忘れて、誰かが面白いことを起こして欲しいと願っていた。

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埼玉県にある大学で都心などで行われる企業説明会に行きやすいのは良かった。

いつも使う東武東上線で池袋駅まで行き、埼京線に乗り換えて板橋駅で降りた。

何人かリクルートスーツで身を包み、上から下まで真っ黒な人が何人かいるカレー店内を後にして、企業説明会会場へ向かう。足が重い。

目線が下がり、まっすぐ前ではなく、少し先のアスファルトを見ながら歩く。

ビルに着いたら、入り口付近にはリクルートスツに身を包み、上から下まで真っ黒な人たちがたくさんいた。

「会場は3階なので、上がってください」

一定の人数ごとにエレベーターに乗って会場につく。もうすでに前の方に人が座ってる。前の方の席を取るのはある一種のアピールだった。

パイプ椅子に座り、企業説明が始まる。「企業理念は…」「福利厚生は…」

あぁつまらない。

けれども来年には会社に入って働かなければいけない。家族の期待がかかっているのだ。ちゃんとした大人になってほしいという期待が。

「最後に質問のある方は…」

14時40分。いつもの質問はありませんか?が始まった。もうそろそろ企業説明会が終わる。

「あれ?揺れてない?」そんな声が聞こえた14時46分。

次の瞬間

「ゴゴゴゴゴゴゴ」そんな地響きとともに揺れる。ビルの3階はよく揺れる。それと同時に「キャー!」と悲鳴のような声「うわー!」とという叫び声が聞こえ始めた。

緊急時や、とっさの時にその人が出るという。

僕はいたって冷静だった。

小学生の時に中越地震(震度4〜5)を家でゲームをしながら体感していたからかもしれない。

爆弾や拳銃はその殺傷性もさることながらその「音」が人を恐怖させ、冷静な判断力が落ちるなどと聞いたこともある。

誰かが「キャー!」とか「うわー!」と叫ぶことが、ビルの中で地震という体感したことのない恐怖に拍車をかけて人を恐怖させ、冷静さを失う。

揺れている時間が長かったから、パニックになる人もいたと思う。

そんな中、企業説明会を担当していた人が「企業説明会はこれで終わりです!みなさん早く避難してください!」と慌てながら言った。

うわー!とか、どけよ!早くしろよ!押さないでよ!と叫びながら階段に人が殺到した。パニックになっている人だ。

当然かもしれない。1分以上揺れていたのだから。怖くて当然だ。

僕はというと、不謹慎かもしれないがテンションが上がっていた。「何か面白いことが起きている」と。

階段を下りるのは割と最後の方で揺れも収まりつつある中、震源をiPhoneで調べながら、階段を下っていた。震源の場所次第では家族も危ない。

宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmを震源…宮城か!実家のある福島の隣の県じゃないか!

外に出るなり、実家へ電話した。地震の直後は電話がまだ使えたのだ。

「もしもし?今ものすごい地震があったと思うけど大丈夫…?」

「あぁタク?こっちはみんな大丈夫だよ。本棚から本が数冊落ちただけだから。あんたも元気みたいね。よかった。就活のほうはどう?そういえば今日企業説明会に行くって…」

「企業説明会に来てたら地震にあったんだけど無事だよ大丈夫。でも帰れるかわからない。また落ち着いたら連絡する。じゃあね」

家族が無事であるという安堵を感じつつ、就活の話はしたくないと、話を遮って電話を切ってしまった。「就活」という単語で現実に戻された。

さてどうしようかと。

大体の就活生は2つある最寄駅の、埼京線の板橋駅か東武東上線の下板橋駅に別れて進み始めた。

僕は東武東上線の方が近かったので、下板橋駅に向かうグループの流れに混じって歩みを進めた。

このときちゃっかり、女子が多いグループを選んで混じったあたり、ほんとに自分クソだと思う。

どこから来たの〜?とかどこの大学?とか就活どう?とか当たり障りない話を少ししながら、下板橋駅についた。

駅の周りにはすでに人がたくさん集まっていて、改札に「運転中止」と張り紙がしてあり、電光掲示板にも運転中止とあった。

いく先も、帰るところもなくなった。

希望を失った。どうしようか。

一緒に歩いてきた人たちは、震災のショック、余震、徒歩による移動で疲れているのが見えた。

近くにあったコンビニで普段は絶対買わない、甘いハイミルクチョコレートを買って、みんなに配った。こういうときは甘いものを食べといた方が落ち着けると思ったのだ。

みんな喜んでチョコレートを食べてくれた。ありがとうと言われるのが嬉しかった。

一緒に歩いてきたメンバーで話し合いをする。どうしようかと。

ここから家が近いという人は歩いて帰るといった。そうではない人たちはどうするか…。

ある一人が、池袋に行けば何かわかるかもしれないと言ったので、行き先を失った人たちで池袋に行くことにした。

電池が残り少ないスマホで確認したら30分ぐらいで着きそうだ。

どうなるかわからない不安とストレス、慣れない革靴とスーツでの移動にみんなの表情は疲れていた。

池袋は家がある方向とは完全に逆方向。

それでいていつも使う電車は動かない。

タクシーで帰るという手段も考えたけど、家に行ってどうなるというのだという思いと、就活で交通費が出まくっている財布事情からするに、その選択は取れない。

「何か面白いことが起きている」と面白がっている状態から冷め、どうしようかと不安が湧いてきたのかもしれない。誰かと一緒にいたい。と。

人は不安な時というのは、誰かにいてほしい、そばにいてほしいと本能的に思うのかもしれない。

どうなるかわからずに、でも誰かと一緒にいたいという思いで池袋へ向かうことにした。

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池袋へ向かうのは僕を含めて7人。男子3人、女子4人。

僕はこういう場合、必ず1番後ろを歩く。

元から歩くのが遅いというのもあるけど、一緒に歩いている人たちの調子を後ろから観察するためだ。

揺れているビルから避難する際に足を捻ったのか、足を痛そうにしている子もいた。

綺麗な靴で、かかとの部分のすり減りも見えない。

けれどもストッキング越しでもかかとの少し上辺りが赤く、靴ズレまではいかないにしても、痛そうだ。そんな子が2、3人いた。

僕は後ろからその状態を観察し「ちょっと地図でも確認しようか」と言って少し休むような状況を何回か作った。余計なお世話だったかもしれないけど。

そうこうしているうちに、池袋についた。人でごった返している。

池袋に来ても電車が動いているはずもなく、全ての電車が止まっていた。

タクシーを待つ人、バスを待つ人、途方にくれる人、行き先のない人。そんな人たちが集まって、カオスだった。

一緒に行動を共にしてきた人たちは池袋から近いところに住んでいる人や、友達がいる人が多くて、みんなそれぞれ散っていった。

そんな中で、近くの大学が避難所として解放されていることを知った。道行く人が言っていた。

僕ともう一人、足を捻ったと思われる女の子が一人だけ、一緒に移動してきたグループから残った。

近くの避難所になっている大学に行くのもいいけど、すでに人が多そうだ。

「私の大学が少し離れているところにあるからそこに行かない?大正大学なんだけど。避難所になっていると思う。」

行き先も行く当てもない僕は、避難所ならどこでもいいと思った。

けれども少し離れているとのことで、その女の子の足を心配したが、知っている場所、知っている人がいるかもしれない場所の方が安心できるような気がしたので「うん、行こう」と答えた。

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「この道をまっすぐ行けば着くから」と305号線の道を歩き始めた。

マップで30分ぐらいの道のり。

池袋駅が封鎖になり、歩いて帰る大勢の人波に紛れながら、行ったことのない道をただただ歩く。

知らない道を地図を確認しなくても進むというのは、時の流れが遅く感じる。

けれども、行き先や目的地が決まっていると不安は減り、文字通り前向きになれるものなのかもしれない。

女の子の足を気にしながら歩幅や歩くペースを合わせ、まばらな人波の中にいるので、休むのは道の広いところや、バスの待合のベンチで。

大正大学へ向かう道の途中で、コンビニに何カ所か寄った。

衝撃的なことに、食べ物も、飲み物もほとんどなかった。

人が押し寄せて奪っていた…わけではなく、みんな買われてしまった後だった。

そういえば、途中の自販機もほとんど売り切れだった。

多くの人が帰路の途中でものを買い、近所の住民も買う。

けれども商品の補充をするトラックは来ない。

道が混雑している状態なのと、工場も震災で機能がストップしているのかもしれない。

コンンビニやスーパーを冷蔵庫代わりにして、都会の便利さに甘えるだけではいざという時に厳しいことになるなと思った。

食べたい時に食べれるというのは、当たり前ではなかったのだと。

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「大正大学の門って、大正って名前の割にイカツイね」

「これは門じゃなくて、ゲートっていうんだよ」

そんな話をしながら、大正大学に到着。

避難所として解放されていた食堂へ歩く。

一緒に歩いてきた女の子は足の痛みと疲れでいっぱいだった表情が、知っている場所に来たからから、安心して少し緩んだ気がした。

避難所には近くの大正学生とみられる学生が多く、教職員、サラリーマン、近所と思われる人がちらほらいるという感じだった。

携帯を充電したかったけど、コンセントは全て避難してきた人の携帯充電器によって埋め尽くされて、充電はできなかった。

携帯をいじるためにコンセントの近くに座っている人も多くいる。

天井から吊るされたディスプレーには、地震や津波の被害を伝えるニュースがあちこちで流れていた。

津波の映像が流れるたびに、避難所内では小さく悲鳴が上がる。

それ以上に余震で少し揺れるだけでも、避難所は大きくざわついた。

結構でかい余震が来た時は、慌てて外に出たりした。

20代前半の体力に自信がある自分でも、疲れてきた。慣れない革靴での2時間を超える移動、余震でのストレス、どうなるかわからない不安。

避難所になっている大正大学の食堂で水と乾パンと毛布を貰い、もうどこかで寝ようかと考えていた。もう外も暗い。

けれども、大正大学に案内してくれた女の子が眠気などなく、不安そうで怖がって真っ青な顔で、震災の被害を伝えるテレビを見ていた。

テレビの中の映像は異世界のファンタジーであったり、知らない遠くの国の出来事を伝えているのかと思っていたけど、現実だ。それも陸続きの2、300キロ先で起きている現実。

自分勝手にどこかに行って寝ることもできたけど、避難所まで案内してくれて、不安で顔な真っ青な女の子を放っておくほど、僕は人でなしではない。

僕は体力的な余裕、地震にも動じないメンタルを持っているけど、目の前の女の子の不安は計り知れない。

足は挫いていて素早く動けないし、友達や家族など心配する相手もたくさんいるだろうし、この先どうなるかわからないし、今いる場所も大きな地震が来るかもしれないし、変な男に襲われるかもしれない。

何ができるかわからないけど、明日の朝までは一緒にいようと思った。余計なお節介かもしれないけど、僕にできることをしたい。

食堂のテーブルに向かい合って、自己分析を手伝うことにした。就活生ならではだと思う。

僕はその当時、同じ経営学部の学生たちが就職を考える、サークルみたいな勉強会みたいなのを開いているところにいたから、就活に必要な情報は結構知っていた。

行きたい業界を聞いて、その業界に行く理由になるような過去のエピソードの洗い出しをして、ストーリーを一緒に考えたりした。

いろんな過去の話や実際にやってきた活動を聞きながら、その女の子を知り、ストーリーを組み立てる。

昔から聞き役に徹して人の話を聞きながら、この人はこういう人。みたいなのを情報を整理していたのが活きてよかった。

人生の振り返りを手伝って、「私はこの業界に行きたいのはこういうことだったのかもしれない!」っと言ってくれたので、新たな発見を手伝えたと思う。

深く相手の人生を聞いていくと、いつの間にか時間が経って、深夜になった。

テレビでは夜通しニュースが流れて、官房長官だった枝野さん(当時)が何度も記者会見をしていた。

この当時「直ちに人体に影響はない」と言っていたり、ネット上で「枝る」という言葉が一時流行っていた枝野さんが今は「立憲民主党」という党を立ち上げて代表になっている7年後は誰も予想しなかったと思う。

余震の大きさと、数が減って来た頃「眠くなったから寝るね」と女の子が言ったので、僕も寝ることにした。

毛布を足にかけて、机に突っ伏してうつ伏せになった瞬間、すぐに寝たと思う。

もしかしたら、彼女は眠そうな僕に気を遣ってうつ伏せに寝たふりをしたのかもしれないけど、それを確かめることはできない。

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気づいたら朝になっていた。

12日は昼から東京メトロ銀座線の外苑前駅の近くで用事があるから、近くにある駅を教えて欲しいと、一緒に移動してきた女の子に聞いた。

僕よりも先に起きて、友達と連絡をSNSで取っているようだった。

「近くに都営三田線の西巣鴨駅があるよ。動いてるかわからないけどね」

と答えてくれた。ネットで確認したら、遅延は出ているけど、動いているようだった。

次の目的地に向かうために、大正大学を出ることにした。

1日近く一緒にいた女の子と別れることになった。名残惜しい。

足に気をつけてね。就活頑張ってね。内定もらえるといいね。なんかあったらmixiでメッセしてね。みたいな少し他人行儀な言葉をかけた。

「昨日はずっと一緒にいてくれてありがとう。すごく不安だったけど、遠藤くんが近くにいてくれて、本当に良かった。自己分析を手伝ってくれてありがとう。」と言ってくれた。嬉しかった。

就活で散々お祈りをされて、自分はこの世にいらないんじゃないかと思っていたから、いてくれてありがとうと言われたのが嬉しかった。存在を認められた気がした。

そこでその女の子と別れてからは、1度も会っていないし、7年経った今ではどこで何をしているかわからない。

mixiでいろいろやりとりをしたけど、ある時からログインをしなくなった。

久しぶりにプロフィールを見たら

今年の春から社会人の仲間入りをしました!
現在はケアワーカーとして、早く一人前になれるよう日々頑張っています(`・ω・´) 

と書いてあったので、内定をもらえたんだろう。

あの時、手伝った自己分析が少しでも役に立ったならいいな。

そして今も元気でどこかで生きていることを祈る。

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