12/2『生まれ持ったものと愛について』そこはかとなく日記
初めてシーシャバーに来た。お店のドアを開けた瞬間、もわもわっと煙たい。ジャガード張りで座り心地のよい椅子にもたれて、ブルーベリーフレーバーのシーシャ。
「遠い太鼓」を読んでいたけど、なんか全然入ってこない。ちょっとクラクラする。
友人パパの本棚には、村上春樹の小説がたくさんあった。村上春樹を読む人の特徴ってなんだろう。
村上春樹ファンを謳う人のインスタはうーんって感じだった。印象に残ったフレーズを紹介していたのたが、どれも一般的な道徳文句。それって、主人公の凡庸なまともさを表していて、その言葉自体がメインポイントじゃないと思うんだよなあ。それなら普通に教科書に載っているような本を読めば良いと思っちゃう。
とはいえ私も、まだ浅い領域までしか読み込めていないと思う。ジェットコースターの一巡目、その一連のコースをざっくり掴み、臨場感を試しただけみたいな。村上春樹の小説は、時間軸や登場人物が入り組んでいて、読みやすさで言えば新宿駅。ただ内容をなぞるだけでも、なかなか骨が折れる。
何巡もして、考えて、あらゆる心理状態で読んでみて、やっとなにかが見えてくるのだと思う。そこまで到達したい。
優れた作家の作品は必ず、絶対にその人にしか語れないような語り方で、新雪を慎重に踏みしめるみたいに綴ってある。
読者は、そうやって作られた道を辿るだけ。彼らと同じ形の足跡をつけることはできない。それがちょっと悔しい。
だから私は私にしかつけられない足跡をつける。まだうまくできないけど、そうやって対抗するしかない。別に戦うわけじゃないけど。
文章を書くのは難しい。
読みやすい文章がどんなものなのかはある程度わかっているし、書くことができる。でもそれは単なる技術であり、職人技である。
私にとってほんとうに難しいのは、書きたいことを書くということ。というか、伝えたいことを洗い出すこと。伝えたいことは、生のままではノイズだらけで、自分にもよく理解できない。
自己顕示欲とか、承認欲求とか、いわゆるエゴを洗い流す。そして本当に伝えるべきことを、伝えたいように組み上げる。煩悩やエゴまみれの私には、それのなんと難しいことか。
我が人生における闘いは、そこにあると思っている。
その他生活の諸々(家事や生活力やある水準の社会的活動など)が上手くこなせるように生まれついたのは、決して手放しで喜べることではない。より厳しいことを要求されているというだけの話だ。
持っているものは有り難く使わせていただいて、そうじゃないところで悩み苦しむ。
小さい頃、貧困や差別に苦しむ人々の話を読んで、なんで自分はこんなに恵まれているんだろうと疑問に思っていた。自分だけこんなに恵まれているのはおかしい、これをなんとかして分け合えないものかと悩んだ。
今では、その疑問はカルマという考え方で解釈している。それぞれの過去世のカルマや、魂の成長に必要な学びを得るためにパーソナライズされた境遇。みんな然るべき境遇に生まれついて、然るべき問題に取り組む。だから、自分に課された課題のことだけを考えればいいということ。
それは社会問題から目を背けるための言い訳かもしれないと思うこともある。でも、世界的な貧困問題なんて、あまりにも自分にはどうしようもないことだ。そこに頭を悩ませているよりは、直接的ではなくとも、自分にできる限りの方法を模索する方が早いと考えた。私に与えられた能力を使って、私にしかできない方法を取ることが、私にできる最善最速の愛なのだ。
そういうわけで、良くも悪くも私に与えられた環境、感受性、理解力、文章能力、生活力をフルに活用して生きている。
自分の能力を過小評価することも、ある意味では傲慢さのひとつと言える。与えられたものは何なのか、どうやって使ったらいいのかを整理することは、そのまま他者への愛になるのだから。
少なくとも現在はそう仮固定している。
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