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誰がための「いいね」

「いいね」の数は誰が押しても1だけど、例えばインフルエンサーに押される「いいね」と、全く知らない方に押される「いいね」はなんとなく価値が違う。

沢山の「いいね」をもらっている人も、実は一番「いいね」が欲しい人からもらってないのかもしれない。

「いいね」を押している人は、その人に気に入られたくて「いいね」を押しているのかもしれない。それは自分のための「いいね」で、その人のための「いいね」じゃない。その人のための「いいね」ってなんだって感じだけど。逆に嫉妬で「いいね」が押せないときもある。そんな時の自分はださいなと思う。

まだ、友達としか繋がってなかったころのTwitterは、友達のくだらない発言に「いいね」して、あげてた食事に「いいね」して、「〇〇のライブ楽しかった!」みたいなつぶやきに「いいね」して。割と心から「よかったね!」と思うことに「いいね」を押していた。

今でも、そういった「いいね」を押すときももちろんあるけど、気にしてもらいたいから「いいね」を押すことも増えた。ちゃんと中身を読んでないのに、誰がつぶやいているかだけで「いいね」をすることもある。

そんなに「いいね」を気にするならTwiitterやめれば? 

なんて声も聞こえてきそうだけど、僕は誰かの「いいね」のあり方を否定したいわけじゃないし、Twitterのおかげで沢山の素敵な出会いがあったから、今の所やめるつもりはない。たまに、誰かと比較して落ち込むことはあるけど、100%濁りなく、全員を幸せにするプロダクトなんかないのだから、そこは一歩引くことも大切だ。

もしも「いいね」一つ押すのに10円かかるとしたら、今より「いいね」の数は減るだろうか。それか、一人が「いいね」を一つのつぶやきに対して何個も押せるようになったら、誰がつぶやいたかというバイアスはなくなるだろうか。

「いいね」がついていなくても、実は自分のつぶやきやnoteは、案外多くの人に見られている。この前も久々に大学時代の先輩に会った時、「誕生日に書いてたnote」良かったよと、不意に言われた。その先輩はTwitterにもnoteにも「いいね」や「スキ」をつけてたわけじゃない。

「いいね」を押さなかった不特定多数の誰かも、ちゃんと自分を見てくれていたりする。

フォロワー数も「いいね」の数も、わかりやすい一つの指標としては、自分がそれにあまりに一喜一憂しない限りは、素晴らしいものだと思う。

フォロワー数が多いってことは、株を沢山買ってもらってるみたいなもので、何かを頼む時の信用として機能する。フォロワーが5,000とか10,000とかいる人は、それ相応の努力を絶対しているし、それだけフォローしてくれている人に価値を還元しているってことだ。憧れられているってことや、気に入ってもらいたいって感情を起こさせていることも、ある意味価値の一つだと思う。

「いいね」の数をどう思うかは、見方によって正義と悪が入れ替わるように、全員賛成の回答が得られないものだ。結局は自分の中でどう折り合いをつけるかって話に落ち着いてしまうのだけど、こんな「いいね」の数についてのnoteを書いているようじゃあ、自分はまだまだだなぁと思うのである。

「いいね」を毒だ薬だと両極端に分けないで、人生のスパイス程度に思うことができるのが、きっとベストなんだろう。お金と同じでどう向き合って、どう付き合うかってことなんだ。

あなたにとっての「いいね」の価値は、なんだろうか。

たまには一歩止まって考えてみるのも、悪くないかもしれない。

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